映像文化から時代を読む記録|文化的記憶を通して時を解く

『月はどっちに出ている』:猥雑な月夜と「属性の研磨」による実存の現成

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理1990年代ノベル

本稿では『月はどっちに出ている』における境界の領土化の構造と、その背後にある時代的記憶を分析する。映像表現と現代社会の最適化された包摂を対置させ、肉体的な摩擦を生存知性への変換回路として放射(Radiation)する批評である。

かつて透明な壁に阻まれ、息を潜めるように生きていた私が、泥臭い生の手触りによって自らを囲む境界線を笑い飛ばせるようになったのは、あの猥雑な夜の記憶が、今も私の内側で静かに、かつ能動的に沸騰し続けているからだ。差別と暴力の吹き溜まる都市の裂け目――そこには、生存そのものが放つ野蛮な光を分かち合う、名もなき個の熱源群があった。それは正しさや連帯といった清潔な言葉を焼き切る、泥まみれの原質が火花を散らす、剥き出しの戦場であった。

1990年代初頭、バブルという巨大な幻影が弾け飛んだ直後の東京には、まだシステムによって最適化されていない生々しいノイズが、アスファルトの熱気とともに充満していた。翻って2026年現在、私たちはあらゆる多様性がアルゴリズムによって数値化され、波風の立たない記号化された共生の檻の中にいる。ポリコレ的な配慮という名の去勢された母岩は、すべてをクリーンなデータとして包摂しようと企てている。

だからこそ、あの時代にスクリーンに刻まれた不法な高潔さを、単なるノスタルジーとしてではなく、高度な管理社会に対する実践的な対抗兵装として、いまここに次なる原質を覚醒させる生成波動(Radiation)として放たなければならない。これは、スクリーン越しの観察ではない。システムに抗い、独自の法を押し通すための、共に地図を沸騰させる者たちとの遠征の記録である。

【沸騰する地図 剥落する回路】
作品データ
タイトル:月はどっちに出ている
公開:1993年11月6日
原作:梁石日(小説『タクシー狂躁曲』)
監督・脚本:崔洋一
主要スタッフ:鄭義信(脚本)、藤澤順一(撮影)
製作:シネカノン
本稿の焦点
主題:属性による包摂を企てる管理社会の母岩に対し、不法な実存が如何に領土を奪還するか。
視点:相互不信を燃料とする研磨の作法を軸に、放射と現成の力学から独自の普遍性を探る。
展望:記号化された共生の檻を脱し、泥濘の摩擦から惑星規模の生成へ至る生存の兵法を得る。

序論:境界の領土化と情動の独立領土 ―― 属性を笑い飛ばす生存知性

本稿は、全5回にわたる連載企画【惑星的視点とミクロの横断:情動のコモンの領土化】の第2回である。[前回の論考]では、極限状態における個の聖域化を記述した1。しかし、要塞化された実存は、単に自己を守り、閉じこもるためにあるのではない。それは境界線を越え、他者の回路を物理的に揺さぶる放射へと至らなければ、いずれシステムの最適化に飲み込まれてしまう。本作『月はどっちに出ている』は、バブル崩壊直後の東京という、属性と記号が複雑に交差する母岩の中で、いかにして地這いの俯瞰を維持し、管理社会の外部へと領土を拡張できるかを問うものである。監督の崔洋一が描いたのは、社会的弱者としての告発や救済の希求ではない。差別や貧困という凄まじい摩擦をエネルギーへと転換し、独自の法を打ち立てる独立領土の建設である。本稿では、相互不信という断層を逆説的な結合点とし、そこから放射される計算不可能なノイズとしての新・共同性を、宇宙技芸の視座から解体していく2。生成論的存在論の五相回路において、原質は常に圧力下に置かれ、研磨の過程を経て結晶化し、やがて放射される。この力学を現代のデータ資本主義社会が強いる記号化された多様性への徹底的な抵抗線として再配置することが、本稿の最大の目的である。

1. 宿命の重力 ―― 差別の母岩を生存の燃料へ変えるタクシー

大島渚が『日本映画の百年』で喝破した「在日75万人」という厚みは、生成論における最も苛烈な母岩である3。それは主人公・忠男(岸谷五朗)を奮い立たせ、差別を跳ね返すための「生きた燃料」を供給し続ける巨大な圧力源だ。母親の圧倒的なバイタリティや、北朝鮮の兄へ送金し続ける執念は、まさにこの母岩の重力が生み出した「生存の作法」に他ならない。

しかし、この母岩は同時に、個の純粋な実存を阻害する「ノイズ」としても機能する。劇中、セックスを中断させるようなタイミングで介入してくる民族的しがらみ、あるいはアイデンティティの問い。それは2026年の私たちが直面している「属性による管理」という、去勢された安全圏への誘惑と通底している。大島の言う「独自性」とは、この重苦しい母岩に根を張りながらも、その重力に飲み込まれない実存の身構えを指しているのだ。本作の舞台となるタクシー会社は、国籍、人種、前歴といった多様な属性が混濁し、火花を散らす高圧釜である。そこでは、2026年のアルゴリズムが求めるような透明で理解可能なアイデンティティなど一切機能しない。むしろ、互いに対する徹底的な不信と偏見が、生を研磨するための不可欠な圧力として激しく作用している。在日コリアン、フィリピン人労働者、ヤクザといった都市の境界線を生きる者たちにとって、社会的なラベリングは決して嘆くべき壁ではない。それは自らの原質を力強く衝突させ、自己の法を打ち立てるための絶好の摩擦面として機能しているのである。

1.1. 記号の檻と密室の肉体性

バブル経済の熱狂が潰えた後の東京は、あらゆる人間を国籍、購買履歴、社会的地位といったタグで分類し、隔離する属性の地図へと急速に変貌しつつあった。これは2026年現在のデータ資本主義が、ユーザーをプロファイリングし、フィルターバブルへと幽閉する構造の極めて野蛮な前兆である。タクシーという装置は、この管理された都市空間を縫い走る移動する密室であり、乗客と運転手という一時的な権力関係が発生する最小にして最も過酷な戦場である。

主人公の姜忠男は、この密室において、日本人からの蔑視や同胞からの期待という記号の檻に晒される。しかし彼は、合皮シートに染み付いた無数の乗客たちの汗とタバコの匂いを吸い込みながら、それらを冷笑的な視線で受け流し、アクセルを踏み込む。ここでの母岩は、特定の共同体に帰属することを強いる社会的な重力そのものである。現代の最適化されたダイバーシティは、これらマイノリティの存在を数値化された多文化主義の中へとクリーンに包摂しようとする。だが、忠男たちが生きる空間では、そのような無害なデータへの解体を明確に拒絶する猥雑なリアリティが脈打っている。彼らは弱者や救済というシステムが用意した最適解を蹴り飛ばし、自らの足で立つための地這いの領土化を、エンジンの振動とともに実践しているのである。

1.2. 摩擦が奪還する実存の原質

本作が提示する最大のアノマリーは、登場人物たちが信頼や連帯といった心地よい物語を一切拒絶している点にある。フィリピン人労働者のコニー(ルビー・モレノ)は、搾取される被害者という立場に安住せず、狡猾に、かつ野蛮に自らの生存圏を確保しようとする。彼女の身体から発せられるフィリピン・パブの安酒の匂いと強烈な香水は、清潔な社会から自らを隔絶する防具でもある。

忠男との関係もまた、甘美なロマンスなどではなく、互いの利害と情動が激しく衝突する摩擦として描かれる。ここで、2026年の高度なスマートシティ化や、AIによるユニバーサル・デザインが進めば、人間がわざわざ衝突や不法な生命力を剥き出しにせずとも、すべての属性が平和に最適化された場所を得られるのではないか、という反論が想定される。

しかし、この超克論理は明確である。AIによる包摂には、他者と地べたで衝突し、折り合いをつける際の泥臭い摩擦と、それによって原質が領土を獲得する生々しい手触りが決定的に欠落している。本論考が提唱する領土化が「実存の原質」を覚醒させるのは、そこにシステムの法に従わないという不条理な意志と、肉体を削るような研磨(Polishing-Phase)が介在し、個を固有の形象(結晶)へと押し上げるからだ。 属性として管理される透明な平和に、外部の母岩から個を隔離し、独自の法を維持する免疫学的な強度は宿らない。それはただの記号化された共生への転落に過ぎないのである。相互不信こそが、安易な共感による領土の浸食を防ぐ不透明性の防御壁として機能する。不信があるからこそ、彼らは互いの背景を詮索することなく、いま眼の前にある原質レベルの熱量だけで接続し、奇妙な解放感を共有することが可能になるのである。

1.3. 境界線上の宇宙技芸

タクシーは、管理された居住区の法を物理的に攪乱する。それは埃っぽい夜の環七を猛スピードで走り抜け、裏路地の不法投棄の横をすり抜け、高級住宅街からドヤ街へと、都市の境界線を不断に無効化し続ける。この移動の軌跡は、ミシェル・ド・セルトーが提唱した戦術の実践である4

忠男が札束の手垢を感じながら客を捌き、女を追うといった反復行為は、単なる労働ではない。それは強固な母岩に亀裂を入れ、独自の倫理を露出させるための研磨の位相である。効率性と平穏を至上命題とする管理都市に対し、あえて不法な生命力を爆縮させる身体性こそが、彼らの自律知性を暴き出す。忠男は無機質な都市のナビゲーションに従いながらも、その実、自らの欲望に従って空間を切り裂き、タクシーを移動する独立領土へと変貌させる。彼らは都市の地図を上書きするのではなく、地図の隙間を自らの領土として占拠する。地べたから世界を俯瞰し続けること。この地這いのロジスティクスは、静止した場所の占有ではなく、運動そのものによって領土を確定する、惑星的リアリズムの極めて実践的な実装形態であり、都市の母岩を圧力源として利用する能動的な宇宙技芸なのである。

2. 不法な高潔さ ―― 属性を無効化する「笑い」と実存の研磨

第1章で定義した相互不信という高圧な母岩の中で、個々の原質は逃げ場を失い、激しく衝突を開始する。この章では、忠男とコニーという異質な存在が、いかにして互いの皮膚を砥石として自らの形象を露出させ、記号化された属性を無効化する結晶へと至るのかを詳述する。大島渚が評価した「普遍性」への道筋は、民族性を無視することではなく、それを徹底的に研磨(Polishing-Phase)の砥石として使い倒すことで開かれる。彼らが展開する研磨は、理解という名のシステムへの屈服ではなく、自らの不透明性を死守し、属性の彼岸へと跳躍するための過酷な闘争である。

2.1. 非因果的に同期する火花

忠男とコニーの接触は、現代社会が推奨する対話による相互理解の対極に位置する。彼らの間にあるのは、共通の言語や文化、あるいは歴史的な地層の共有ではない。むしろ、それらが一切欠落しているからこそ、接触の瞬間に生じる摩擦熱が、ダイレクトに原質を研磨する。忠男が自らの在日という属性や、タクシー運転手という底辺の記号を自虐的に嘲笑し、剥き出しの欲望でハンドルを握るとき、彼は自らを社会の母岩の歯車として死なせないための自己贈与(点火)を行っている。

彼らの性愛や喧嘩は、単なる感情の爆発ではなく、互いのリズムが突発的に一致する非因果的同期の実践である5。この同期は、物語的な因果律を飛び越え、雨上がりのアスファルトが放つ熱気のように、いまこの瞬間に震えている肉体のリアリティを最優先する。コニーが忠男に対して放つ怒声や、忠男が彼女に向ける欲望の眼差しは、相手をフィリピン人や在日二世という社会的な記号に回収することを力強く拒絶する。研磨が極限に達したとき、火花として放たれるのは、意味の解読を待たずに相手を撃ち抜く純粋な実存の熱量である。この熱量こそが、管理社会が用意したプロファイリングの網の目を焼き切り、彼らだけの暫定的な独立領土を瞬間に発生させる無尽蔵のエネルギー源となる。

2.2. 不透明なケアと笑いの技術

崔の演出において最も強力な宇宙技芸(コスモテクニクス)として機能するのが笑いである。本作における笑いは、状況を和らげるための緩和剤などではない。それは、差別や暴力、あるいは貧困という重力を、一瞬にして運動エネルギーへと変換し、無効化するための高度に身体的な研磨の作法である。忠男は「在日」であることに苦悩するのではなく、その属性を徹底的に「笑い」へと変換し、消費し、ときには武器として振り回す。

母岩としての民族性は、個を奮い立たせる燃料であると同時に、個の快楽や自由を去勢する「足枷」でもある。本作が歴史的な傑作となったのは、アイデンティティ・ポリティクスが絶頂だった90年代に、あえてその「属性の重さ」を「めんどくさいノイズ」として笑い飛ばしたからだ。 劇中、忠男とコニーが情動のピークに達しようとする瞬間、あるいは生活の最も親密な瞬間に、民族的出自や「北」の影、差別といったしがらみが土足で踏み込んでくる。この「セックスを中断させるノイズ」こそが、実存を包囲する属性の壁の正体である。崔はこれを悲劇として描かない。徹底的な喜劇、あるいは「めんどくさい日常」として描く。この身構えこそが、生成論における研磨(Polishing-Phase)の極致である。 2026年の私たちは、あらゆる行動を「属性への配慮」によって自己検閲している。だが、忠男は違う。彼はそのノイズを笑い飛ばし、中指を立て、再び自分の欲望へとハンドルを切る。属性を「誇り」として神聖化するのではなく、生存を駆動させるための「砥石」として使い潰すこと。この不遜なアティチュードこそが、マトリックスのコードからの華麗なる離脱であり、管理社会の外部へと領土を拡張する戦術的亡命なのである。

この笑いによる研磨の現場には、常に汚濁が伴う。フィリピン・パブの安酒、喉元を焼くような怒号、そして札束の生々しい手垢。これらは、デジタルアーカイブが最も不得手とする「肉体的なノイズ」である。忠男がコニーと交わす罵り合いは、ヒューマニズム的な連帯ではなく、生き抜こうとする原質が漏れ出した領土化の副作用であり、不透明なケアの応酬に他ならない。コニーがカラオケで絶唱し、不遜に振る舞う姿は、統計データ上の外国人労働者という平坦な層から、誰にも代替不可能な独自の形象が露出するプロセスである。

2.3. 密室に築く免疫膜の領土

このようにして生成された結晶(Crystallization)は、データ資本主義が最も忌み嫌う計算不可能なノイズとして、都市の空間に物理的な跡を刻み込む。2026年のAI最適化社会という去勢された母岩が、すべてを属性として処理しようとする一方で、忠男の属性を笑い飛ばし、独自の法を押し通すという解消不能なエネルギーは、システムの計算式を完全に狂わせる。大島が予見した「日本映画の地殻変動」の正体とは、この属性の檻を拒絶し、摩擦によって実存の原質を露出させる運動そのものであった。

このノイズこそが、ミラード・エリアーデが論じた聖なる空間の形成に似た、新たな領土を建設する6。タクシーの車内という半径1メートルの独立領土において、忠男と周囲の異邦人たちが交わす猥雑なエネルギーは、外部の法を完全に遮断する免疫膜として機能する。この行為は、差別や貧困という世界のエントロピーを反転させ、個体をただ持続する安定モードから、臨界点を超えて炸裂する破裂モードへと導く。

彼らがタクシー会社の薄暗い事務所やアパートの狭い部屋で築き上げる関係性は、社会的なインフラの一部でありながら、その実、社会の法が届かない「例外状態」である。そこでは、不法滞在も、血縁のない連帯も、暴力的な同期も、すべてが彼ら独自の法として機能している。大島の言う「独自性」とは、この重苦しい母岩に根を張りながらも、その重力に飲み込まれない実存の身構えであり、この情動の独立領土の内部でのみ、原質は真の自由を謳歌し、自律した実存を聖域化するのである。この属性を脱ぎ捨てていく地上的な技法こそが、大島が喝破した「世界に向かっての普遍性」を放射するための、唯一の生存路(ロジスティクス)となる。

3. 普遍性の宣言 ―― 境界のフィールドを現成させる生成波動の放射

研磨の果てに現れる結晶(Crystallization)とは、もはや「何人(なにじん)であるか」という問いが意味をなさない地点で、なおも輝きを放つ「剥き出しの実存」そのものである。第2章で確立された情動の独立領土は、単なる閉塞した避難所ではない。生成論的存在論において、結晶はその臨界点において破裂し、周囲の母岩へと干渉波動を放つ性質を持つ。

忠男とコニーの、不純で野蛮な同期から生じた火花は、二人の閉じた関係を超え、境界線そのものを物理的に揺さぶる放射(Radiation)へと転換される。この結晶の破裂が周囲へ放つ生成波動こそが、周囲のフィールド(場)を現成(Manifestation)させ、次なる原質を呼び醒ます最終回路となるのである。大島渚が崔洋一に見出した普遍性とは、民族という殻を内側から食い破り、一人の「個」として世界に投げ出された時の、その固有の形象に他ならない。

忠男がハンドルを握り、タクシーの合皮シートに体温を刻み込むとき、彼は「在日」という記号ではなく、ただ生きることに執着する「裸の人間」へと相転移している。2026年の最適化社会において、あらゆる個人が属性のタグで再領土化される中で、忠男のこの「属性なき実存」は、システムのアルゴリズムを無効化する最も強力なアンチテーゼとなるのだ。

3.1. 破裂する関係と他者贈与

この結晶化された実存から放たれる放射(Radiation)の力は、既存の境界線を笑い飛ばしながら突き抜けていく瞬間に発生する。忠男とコニーの間に生じる摩擦熱は、しばしば二人の物語という安易な枠組みを突き破り、タクシー会社、飲み屋の客、そして都市の空気そのものを不可逆的に変形させていく。この放射とは、結晶化した実存が自己保存のフェーズを終え、世界に対して「他者贈与(Gift)」として投げ出される荒々しい運動である。

大島が「世界に向かっての普遍性を宣言した」と評したこの波動は、忠男やコニーが放つ汚濁と熱気にまみれたエネルギーとして、日本という国家の母岩を物理的に揺さぶり、多文化共生という制度的スローガンが作り出す“清潔な物語”を内側から激しく爆破する。彼らが路上で交わす罵倒や、アパートの壁を突き抜けるような喧嘩の物音は、周囲に住まう属性の安住者たちの耳や目を貫き、彼らが無意識に守ってきた境界線の虚構性を露呈させる。放射されるのは意味ではなく、純粋な生存の周波数である。この破裂の瞬間、二人の関係はもはや私的な愛着に留まらず、都市の地政学的な断層を再定義する生成の核として機能し始める。放射された波動は、同じように都市の裂け目に潜む他者の原質に飛び火し、管理社会の外部に新たなコモンの連鎖を誘発するのである。これは、寄生者が宿主のシステムを書き換えるノイズの哲学そのものであり、デジタルアーカイブ不可能な肉体的なノイズがシステムを侵犯する瞬間である7

3.2. 大島渚が予見した普遍の相

大島が予見した「外国人の登場」による変化とは、かつて「内部の他者」であった在日の独自性が、普遍的な人間のドラマとして放射され、日本という閉ざされた系を惑星規模の生成の場へと現成(Manifestation)させることだった。大島が喝破したのは、血縁、国籍、歴史といった既知の共同体を基盤としたヒューマニズムの決定的な終焉である。本作が提示する普遍性とは、それらの古い母岩が崩壊した後の荒野において、異質な個体同士がいかにして摩擦を繰り返し、新しい関係性の形式を立ち上げ得るか、という問いへの回答に他ならない。

これは、エドワード・ソジャが論じた「第三空間」の実装である8。このようにして生成された結晶は、データ資本主義が最も忌み嫌う計算不可能なノイズとして、都市の空間に物理的な跡を刻み込み、周囲へと放射される。忠男の属性を笑い飛ばし、独自の法を押し通すという解消不能なエネルギーは、システムの計算式を完全に狂わせる。このノイズこそが、ミラード・エリアーデが論じた聖なる空間の形成に似た、新たな領土を建設する6。タクシーの車内という半径1メートルの独立領土において交わされる猥雑なエネルギーは、外部の法を完全に遮断する免疫膜として機能し、個体をただ持続する安定モードから、臨界点を超えて炸裂する破裂モード、すなわち放射(Radiation)の位相へと導くのである。この波動こそが、古びた社会OSを上書きし、惑星規模の新たな知性を覚醒させる。

3.3. 次なる原質を呼ぶ最終回路

彼らが築き上げる関係性は、社会の法が届かない「例外状態」であり、そこから放たれる放射(Radiation)は、社会的なインフラの一部でありながら、その実、社会の法を書き換えていく。大島の言う「独自性」とは、この重苦しい母岩に根を張りながらも、その重力に飲み込まれない実存の身構えであり、この情動の独立領土の内部でのみ、原質は真の自由を謳歌し、自律した実存を聖域化するのである。本作の結末において、忠男たちは何らかの正解に到達するわけではない。彼らは依然として境界線上にあり、明日をも知れぬ地這いの俯瞰を続けている。しかし、この安住の拒絶こそが、生成論における放射の持続を力強く保証する。

私たちは2026年の無菌室から、忠男のように属性を笑い飛ばし、不透明なまま強引に接続されるための「地道な領土化」を奪還しなければならない。境界線は、もはや嘆きの壁ではない。それは私たちが放射(Radiation)を開始するための、最も熱く、豊かな生成の現場なのである。領土化された原質が、不毛な都会の中でなお独自の輪郭を維持し、波動を放ち続ける瞬間は、システム内部に不透明な聖域を確立するための戦術的亡命として理論化される。今週行われた境界侵犯を伴う領土化は、ミクロな地点から惑星を見上げる回路を携えて次週の倫理へと踏み出すための、次なる原質を呼び醒ます最終回路である。現代のAI社会が構築する透明な檻の外部で、私たちは彼らから放たれた放射を拾い上げ、計算不可能な未来をテラフォーミングするための種火として深く継承しなければならないのである。

結論:境界線こそが放射を開始する「生成の現場」である

『月はどっちに出ている』が現代の私たちに突きつけるのは、属性という名のタグ付けによって人間を平和裏に管理しようとするデータ資本主義の母岩に対する、徹底した肉体的な抵抗である。忠男とコニーが繰り広げた、相互不信を糧とする凄まじい研磨と放射は、信頼や共感といった脆弱で管理されやすい言葉よりもはるかに強固な、実存の同期を可能にすることを証明した。

彼らは、差別や疎外という重圧を公転軌道へと投げ出し、札束の手垢やタバコの匂いにまみれながら、自らの生を惑星規模の不条理と同期させることで、独自の法が支配する領土を泥にまみれながら奪還した。この領土化の意志は、自己完結を明確に拒絶し、破裂と贈与を通じて、周囲のフィールド(場)を外部から現成(Manifestation)させる。100本目の記事に向けて私たちが獲得すべきなのは、最適化されたダイバーシティに飼い慣らされることなく、この不透明なまま強引に接続されるための異質なまま図太く生き抜くための兵法である。

次回の考察では、このミクロな情動がいかにして時空を貫く巨大な公転へと変貌し、全歴史を版図に収める情動の軌道を形成するのかを、さらなる深層から追う。境界線は、もはや超えられるべき嘆きの壁ではない。それは、私たちが放射を開始するための、最も熱く、最も豊かな生成の現場なのである。

  1. 前回記事「『戦場のメリークリスマス』:軍律の磨耗と「遺髪という放射」の贈与論」では、極限の収容所という母岩において、敵対する原質同士が接吻や微笑を通じて非因果的に同期し、不可侵の聖域を構築するプロセスを分析した。本稿はその論理を継承し、都市空間への拡張を試みるものである。
  2. Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Urbanomic, 2016. 日本語訳:ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(伊勢康平訳、ゲンロン、2022年)。技術を単なる道具的有用性ではなく、道徳や宇宙論と結びついた宇宙技芸として再定義する枠組み。
  3. Nagisa Oshima (Dir.), 100 Years of Japanese Cinema, British Film Institute, 1995. 映画誕生100周年を記念しBFIが世界各国の監督に依頼したシリーズの一編。大島は本作の掉尾において、崔が描いた「在日の独自性と世界に向かっての普遍性」を、増加する他者による日本映画の変容の端緒として定義した。
  4. Michel de Certeau, L’Invention du quotidien. I, Arts de faire, Union générale d’éditions, 1980. 日本語訳:ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、筑摩書房、2021年)。管理主体が構築した戦略的な空間の中で、利用者が即興的な「術策」を通じて、その空間を一時的な実践の場へと作り変えるプロセスを分析。
  5. Ira Progoff, Jung, Synchronicity, and Human Destiny, Julian Press, 1973. 日本語訳:イラ・プロゴフ『ユングと共時性』(河合隼雄・河合幹雄訳、創元社、1987年/新装版、創元アーカイブス、2024年)。ユング本人との対話に基づき、非因果的連関の原理を人間経験・運命の次元で記述。
  6. Mircea Eliade, Le Sacré et le Profane, Gallimard, 1957. 日本語訳:ミルチャ・エリアーデ『聖と俗:宗教的なるものの本質について』(風間敏夫訳、法政大学出版局、1969年/新装版、2014年)。
  7. Michel Serres, Le Parasite, Grasset, 1980. 日本語訳:ミッシェル・セール『パラジット――寄食者の論理』(及川馥・米山親能訳、法政大学出版局、1987年/新装版、2021年)。関係性の中の「ノイズ」が新たな秩序や変異を生む触媒となる過程を論考。
  8. Edward W. Soja, Thirdspace: Journeys to Los Angeles and Other Real-and-Imagined Places, Blackwell, 1996. 日本語訳:エドワード・ソジャ『第三空間――ポストモダンの空間論的転回』(加藤政洋訳、青土社、2005年/新装版、2017年)。物理的な第一空間と精神的な第二空間を止揚し、実生活と想像力が交差する「第三の空間」を提唱。

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