時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『じゃりン子チエ』:非合理な生存戦略と「システムの影に息づく生の強度」

映画システムと規範の構造1980年代生存と生命の倫理アニメマンガ

システム的な正当性が崩壊した後、私たちは一体どこで生きる価値を見出すのか。現代人が依存し続けた国家的な大義や合理的規範が機能不全に陥る時、倫理の重心は、突如として路地裏の生存戦略へと転移する。『じゃりン子チエ』が描く大阪西萩の日常は、センチメンタルな人情劇ではない。それは、マクロな構造の外側に築かれた、経済的制約と非合理な情動を燃料とするミクロな生存システムの精緻な設計図である。本論考は、その非対称な倫理的空間を、情緒的な共感性を排し、構造論理の定規で計測し、『生の強度』という根源的な倫理を再定義する試みである。

【閉鎖系の熱と、俯瞰された孤独】
作品データ
タイトル:じゃりン子チエ(劇場版)
公開:1981年4月11日
原作:はるき悦巳(マンガ『じゃりン子チエ』)
監督:高畑勲
主要スタッフ:城山昇(脚本)、小田部羊一・大塚康生(作画監督)、山本二三(美術監督)、星勝(音楽)
制作:東京ムービー新社
制作協力:テレコム・アニメーションフィルム、澤田隆治
製作:キティ・ミュージック

序論

この一連の批評企画は、【理性の最果て:システム崩壊後の『生の強度』と『非合理な呪縛』の倫理学】という大テーマに焦点を当てた全5回連載の一部であり、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追うものである。

システムは、その肥大化と複雑性において、自らの機能的妥当性(Functional Credibility)を主張する。[前回の論考]は、そのマクロな機能的妥当性の構造的破綻が不可避となった点を指摘した1。本稿の起点となる『じゃりン子チエ』は、はるき悦巳による原作マンガが1978年から1997年まで約19年間にわたって連載され、高畑勲によるアニメ映画が1981年に公開された。原作者であるはるきが、作品の舞台(大阪市頓馬区西萩)のモデルとされる西成区の出身であるという事実は、その描写の当事者性と地理的な埋め込み(Embeddedness)を担保している。作中の舞台である「西萩」は、作品連載開始前の昭和48年(1973年)に行政による町名変更により消滅した地名である。作中に通天閣や南海電車といった現実のランドマークが頻繁に登場するにもかかわらず、「頓馬区」という架空の地名と消滅した「西萩」を組み合わせることは、行政システムが公式に抹消した場所に、あえて生命力を再構築する批評的企図として解釈されるべきである。この約19年間の連載期間は、日本の高度経済成長の頂点からバブル崩壊後の「失われた時代」へと移行する激動期を完全に包含し、システム的な信頼が大きく揺らいだ時代と重なる。

しかし、作品の舞台となる大阪の下町は、そのシステム的な成功譚の外部に位置する。この地域は、近代的な合理性や都市計画の光が及ばない、あるいは最初から公的介入を諦めた倫理的な空白地帯である。高畑は、この作品を単なる滑稽譚としてではなく、生活のリアリズムに基づく非対称な生存圏の記録として構築した2。この転換が指向するのは、巨大なシステムによる支配を免れた共同体の深層である。それは、システムの規範が失効した結果、必然的に生成された最適化された生存戦略としての生活様式である。この作品が時代を超えて評価されるのは、システムの成功が続く中で、その影の部分にある『生の強度』を透徹した視線で捉えた、批評的鋭さゆえである。

1. マクロな規範の無効化と「逸脱」の倫理的再定義

『じゃりン子チエ』が描く下町の空間は、国家や政治というマクロな正当性の枠組みが実質的に無効化された領域として分析される。ここでは、主人公である竹本チエの営みを、システムの外側で自己の生存と共同体の秩序を確立しようとする客観的な構造論理として解剖する。

1.1. 労働規範の外部化とインフォーマル・エコノミー

父親であるテツの常習的な賭博行為や、チエが切り盛りするホルモン焼き屋の非定型な経営は、既存の労働規範、税制、そして家族形態が規定する社会の倫理からの意図的な乖離である。当時の日本は、完全失業率が2%台と極めて低く、終身雇用制度が強固に機能していた時期にあたる3。その中で、正規の労働市場に依存しない彼らの生活は、現代におけるギグ・エコノミーやインフォーマル・エコノミー(非公式経済)の先駆的な形態と見なすことができる。チエは、近代社会が理想とする賃労働や安定性ではなく、テツの予測不能な行動力と、共同体の非貨幣的かつ情動的な相互扶助を、生活を維持するための資源として能動的に再定義し、活用する。これは、国家の社会保障システムが機能しない領域における、最も合理的な生存形態なのである。

1.2 「賭博」による資本再分配と期待値への投資

テツの賭博行為は、単なる道徳的な悪行として片付けることはできない。それは、正規の労働による富の獲得を諦めた人々が、非合理な期待値に基づく資本再分配の試みとして構造的に捉えるべき現象である。システム内部での努力が報酬に結びつかないと悟った層が、一発逆転のロジックに生存の望みを託す構造は、氷河期世代以降が経験した能力とリターンの非連動性を極限まで先鋭化したものとして理解される。テツの行動は、労働倫理に対するアンチテーゼであり、システムへの服従を拒否した者が選ぶ、リスクを伴う主体的選択なのである。

2. 「欠乏」の経済学と非合理な駆動原理の解剖

チエの行動原理を駆動させる非合理な力は、単なる感情論ではなく、経済的欠乏そのものが逆説的に生み出す強靭な生存能力である。ここでは、その生存能力がいかにして担保されているか、技術的側面と社会学的側面から分析する。

2.1. プレスコアリングが生む「実存的リアリズム」

高畑は本作において、声を先に収録し、その演技の呼吸や間に合わせて絵を描くプレスコアリング(プレスコ)という手法を採用した4。これは、声優の生理的な演技を優先することで、アニメ特有の記号的で誇張された動きを排除し、登場人物たちの生活における身体的な重みや実存感をフィルムに定着させる狙いがあった。この技術的選択は、貧困や欠乏といった重いテーマを、安易なドラマツルギーに回収せず、そこに人間が生きているという即物的な事実として提示するために不可欠である。私たちは、この演出を通じて、彼らの『生の強度』を観念としてではなく、物理的な質感として受け取ることになる。

2.2. 結束型ソーシャル・キャピタルによるコスト相殺

チエは、金銭的な余裕がないという機能的制約の中で、ホルモン焼きという即物的な価値と、テツという管理不能な存在がもたらす情動的な負荷を交換材料としている。社会学者ロバート・パットナムが提唱した結束型(ボンディング)ソーシャル・キャピタルの概念を適用すれば5、下町の共同体は、同質性の高いメンバー間で極めて強い信頼と規範を共有している。テツのトラブルは共同体に社会的コストをかけるが、そのコストを共同で処理する代わりに、周囲の人間はチエを助けるという共同体的な連帯感を報酬として得る6。金銭が介在しないこの互助システムこそが、外部からの支援がない環境下でのセーフティネットとして機能しているのである。

3. 現代的倫理との衝突と「強さ」の逆説

物語が提示する生存の在り方は、2020年代の私たちの倫理観と鋭く対立する。昨今、高畑版『じゃりン子チエ 劇場版』(1981年)がYouTubeの公式チャンネルで期間限定の無料公開が実施された7。これは、現代的な正しさと、作品が描く野蛮な生命力の相克を深掘りする。

3.1. 「ヤングケアラー」論と代理的主体性の相克

現代の福祉的観点やポリティカル・コレクトネスを適用すれば、チエは明白なヤングケアラーであり、テツは児童虐待(ネグレクト)の加害者として断罪されるべき対象である。システムは、チエを保護し、テツから分離することを正義とする。しかし、ここで一つの倫理的アポリア(難問)が生じる。福祉システムによる「正しい保護」は、チエから店を切り盛りする誇りや、大人たちを御する代理的主体性(Agency)という『生の強度』を剥奪し、彼女を安全だが無力な子供へと還元してしまうのではないかという問いである。チエが獲得しているのは、自分がいないと世界が回らないという圧倒的な自己効力感であり、それはニーチェ的な運命愛にも通じる、過酷な現実を肯定する力である。

3.2. 「埋め込み」の罠と普遍性の欠如

このシステムの外側で獲得した生存の強度は、その強靭さの代償として、共同体という閉じられた環境への本質的な依存を内包する。経済社会学における埋め込み(Embeddedness)の概念が示すように、チエの強さはその特殊な文脈に埋め込まれているからこそ機能する。この共同体の熱の外側、すなわち冷たい近代社会に出たとき、彼女の強さは突如として無効化される。共同体内で有効な人間関係のスキルや情動的な交渉力は、マクロなシステムにおいては社会不適応や非効率性として処理されるリスクが高いのである。ここに、現代人がチエに憧れつつも、決してそこへ帰還できない決定的な断絶が存在する。

結論

『じゃりン子チエ』が私たちに提示するのは、システムが機能不全に陥った際に発動する、人間本来の野生的な生存プログラムである。それは、貧困や欠乏を嘆くのではなく、それらすべてを生きるための燃料に変える強靭なリアリズムに支えられている。しかし、私たちが直視しなければならない厳然たる事実は、その強さが閉鎖的な共同体という土壌に依存しているという点である。

かつての下町のような、逸脱を許容し、相互に依存し合う土壌は、現代の都市化と個人化の波によってきれいに舗装され、蒸発した。チエのような強さを持った個人が、共同体という防具を剥ぎ取られ、たった一人で冷徹な社会システムに対峙したとき、そこで待っているのは英雄的な勝利ではなく、居場所の喪失という静かな絶望かもしれない。

次回は、この共同体から弾き出され、システムの冷たさに直面した若者たちが、それでもなお自己の倫理的座標を探そうとして足掻く、敗北と再生の物語へと視点を移す。

  1. 前回記事「『シン・ウルトラマン』:システム信頼の終焉と「非合理な愛のコスト」を問う」では、高度に洗練されたシステムが不可避的に機能不全に陥るプロセスと、その崩壊の瞬間にのみ立ち現れる「人間的な愛」という非合理なコストの倫理的意義について分析し、本稿への論理的な接続を確立した。
  2. 参照:高畑勲『映画を作りながら考えたこと』、岩波書店、1991年。
  3. 参照:総務省統計局「労働力調査(基本集計)推移」1980-1985年。このマクロな成功体系の外部におけるチエの生存戦略は、近代システムへの服従を拒否した最も合理的な生存形態である。
  4. この手法は、高畑勲がアフレコ時に「先に声を収録していればもっと良くなったのに」と痛感した経験に基づく、演技の伸びやかさを優先するための制作上の選択である。
  5. 参照: Robert D. Putnam, “Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community,” (Simon & Schuster, 2000) / 邦訳:ロバート・D・パットナム 『孤独なボウリング:米国コミュニティの崩壊と再生』 柴内康文訳、柏書房、2006年。
  6. 例えば、テツの元教師である花井拳骨がチエに酒を飲ませるという、現代的倫理に反する行為も、テツの監督者としての「盟約」を結ぶという非合理な共同体維持のための儀式として解釈可能である。
  7. 参照:TMSアニメ公式チャンネル、2025年11月21日〜24日配信。また、作中でチエと母親のおテツが鑑賞する『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』は、テツという「非合理な怪獣」とチエの愛を対置させるメタフィクション的な装置として機能しており、現代的な再評価の波(この再公開はその証左)の中で、作品の構造的な批評性を高めている。
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