映像文化から時代を読む記録|文化的記憶を通して時を解く

『正欲』| 全体性暴力と「絶縁の共同擬態」の測量記録

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理ノベル2020年代

本稿では『正欲』における個別的身体の構造と、その背後にある時代的記憶を分析する。映像表現と社会的背景を接続し、生存知性への変換を試みる批評である。

完璧に舗装された境界線と、異物の混入を許さない現代的な建築資材の乾いた手触り。その均整な街並みを射抜く無機質な光のなかで、異質な生存の輪郭を維持することは極めて困難である。かつて就職氷河期と称される構造的破綻のなかで生存の足場を奪われ、システムの均質化圧力とそこから漏れ出た個体の忘却を余儀なくされた世代が経験してきたのは、過剰な調和と包摂の圧力という、真の生を窒息させる過酷な抑圧であった。記号消費される「多様性」という偽装インフラの中で、真に自律した知の源泉はいかにして潜伏し、自らを組織化するのか。

映画『正欲』が暴き出すのは、多様性という美名のもとであらゆる異質の原質(Primal Matter)を記号化し、統治の母岩(Matrix)へと回収しようとする管理システムに対する、硬質で非情な拒絶の軌跡である。映画の精緻なカット構造に刻まれた硬質な物性、および音響のノイズは、単なる演出ではなく、個体を圧し、変異を強いる母岩との摩擦そのものに他ならない。本論考は、マジョリティの要請する「分かり合い」という通信ポートの外部に生じる中空地帯において、個体が独自の不在基底を敷設し、不全のまま定住していく生成論的プロセスを、作中の物理的物性とともに垂直に掘削し、その厳格な生存回路の全容を解剖する試みである。

【管理の幾何学 不透明な水面】
作品データ
タイトル:正欲
公開:2023年11月10日
原作:朝井リョウ(小説『正欲』)
監督・編集:岸善幸
主要スタッフ:港岳彦(脚本)、夏海光造(撮影)、岩代太郎(音楽)
制作:テレビマンユニオン
製作:murmur、テレビマンユニオン、ビターズ・エンド、CULEN
本稿の焦点
主題:生存再生産を強いる社会構造に対し個体が起工する不透明な隣接の生存様式の測定。
視点:職場の言語暴力や指輪の物質性に潜むマジョリティの包摂技術と共同擬態の解剖。
展望:安易な共感をパージし不在を基底に据えた生存知性による規範の意味への回収の拒絶。

序論:『正欲』という記号の二重底、あるいは「せいよく」の界面

本稿は、連載企画【残響の転換と不在の基底:残存する空白による「生存回路」の自律成層】の最終回である。[前回の論考]においては、欠落した身体の余白が生存回路へ転換される動態を追った1。それに続く本稿が対象とするのは、現在の地表において「理解」という名の包摂プロトコルと衝突し、地下に潜伏せざるを得ない個体の変異組成である。社会OSが要請する「正常さ」という均一な金型に対し、個体内部に圧縮された原質(Primal Matter)はいかなる抵抗の軌跡を描くのか。物語を単なる心理劇や倫理論へと要請する物語批評をパージし、映像に横たわる硬質な物性リストを鉄筋として論理を成層させる。実在する物理的部品表に立脚し、他者を説明可能な領域に囲い込もうとする全体性の暴力を遮断する不在の工学をここに起工する。

朝井リョウが提示した『正欲』という文字列は、過剰に最適化された共通システムの周縁における最大の欺瞞を暴き立てるための、精緻に設計された導通管である。この記号は、聴覚的な次元において「性欲」という手垢のついたカテゴリーへと意図的に混線を引き起こす。観測者(マジョリティ)の多くが、本作を「マイノリティの性欲と多様性を巡る物語」として無抵抗に回収し、安易な共感やお情け理論2で消費しようとするのは、この混線に絡め取られているからに他ならない。しかし、生成論的存在論の視座からこの地層を測量するならば、本作の本質は「性」の領域にはない。そこで駆動しているのは、文字通り「正しさへの欲望」としての「正欲」である。

マジョリティがこの作品を「性欲」の話だと誤解したがる理由は、彼らの認知システムが「性のバグ(特異な性指向)」という枠組みを必要としているからである。フーコーが看破したように、統治権力(Matrix)は異物を「異常な性」として分類・コード化することで、初めてそれを管理可能なデータへと還元できる3。諸橋大也が個室で行う排熱行為を「特殊な自慰(性欲)」と見なすことで、社会システムは「理解困難だが、多様性(ダイバーシティ)のポートで包摂すべき対象」として安全に処理しようとする。すなわち、「性欲の物語」という誤解は、マジョリティが自らの「正しさ」を脅かされないための、防衛的な認知の防波堤なのだ。

だが、画面が網膜に突きつける物理的事実は、その包摂プロトコルを根底から無効化する。作中で暴かれる「正欲」とは、他者を「理解可能な記号」へと漂白し、自らの管理可能な射程へと回収しようとする、マジョリティの無自覚で暴力的な「正しさへの生存欲求」そのものである。神戸八重子が差し出す共感のネットワークも、寺井啓喜が息子に強いる「普通の教育」というインフラも、すべてはこの正欲という名の高圧釜(Matrix)の作動音に他ならない。

したがって、本作のタイトルが内包する「せいよく」の響きは、以下の二重底の構造を持っている。

  • 表層の混線(性欲):異物を「理解可能な異常」へとコード化し、消費可能な資源として回収しようとする、社会OS側の網膜保護膜。
  • 深層の割れ目(正欲):「理解」という名の簒奪によって、個体の固有形象(結晶)を平坦化しようとする、マジョリティの無機質な生存知性。

本作は、観測者が「性欲の物語」という無摩擦な誤解(表層)に安住することを許さない。それは、多様性という記号の底割れした中空の亀裂から、システムそのものが内包する「正欲」という名の加害の基底を、観測者の皮膚境界へと直接結線する、急進的な相転移の試みである。

1. 映画正欲の初期衝動:過剰な記号からの離脱

過剰な記号消費に埋め尽くされた地表の最外殻に「物理的絶縁」の接合点を生成し、機能分離された静的な生存回路を成層する領域の相転移である。

第1章の構成的概略:

本章では、最適化された地表の通信網が個体に強いる同調圧力と、その金型を内側から爆破する原質(Primal Matter)の初期微動を観測する。記号化された多様性の欺瞞と個体の肉体が衝突する界面において、いかにしてお情け理論をパージした中空の生存回路が起工されるかを、映像の硬質な幾何学構造から逆算・測定する。

1.1. 記号の蹂躙と水の像

情報過多による個体輪郭の摩耗に対し、意味論的接続を拒絶する不透明な緩衝域の成立点である。

最適化された社会システムの最外殻において、個体の輪郭は過剰な情報と記号の強制的な注入によって摩耗を強いられている。佐々木佳道(磯村勇斗)が同僚の誘いを排し、移動空間としてのタクシーに肉体を押し込めるカットにおいて、フロントガラスの向こうに広がる都市を背景に、助手席背面のモニターから唐突に噴出する英会話宣伝のデジタルサイネージの音声は、脈絡なきノイズによる空間の蹂躙そのものである。この音声は、個体に自己啓発と成長を強迫する命令コードであり、車内の閉鎖的な空気を振動させる。さらに、両親の死という実存的切断が警察からの通信という極めて事務的な回路によってもたらされ、両親の遺骨の入った二つの箱とともにある空間において、エモーショナルな受容の隙間は存在しない。感情の揺らぎを記述する心理的形容はパージされ、ただタクシー内の動画の無機質な振動という物理的事実のみが空間を支配する。

地方都市の不透明な大気の中、広島県福山市の回転寿司カウンターに接地する桐生夏月(新垣結衣)の身体は、周囲のモバイルデバイスの駆動音と、隣席の客が自ら収録し垂れ流す過剰な食レポの音声に包囲されている。この喧騒は、個体をマジョリティの消費快楽へと同期させようとする母岩(Matrix)の、微細かつ過密な分散型圧力に他ならない。皿が擦れるプラスチックの硬質な音、電子注文端末が発する機械的なトーン、正式な食欲をパロディ化する他者の咀嚼音は、個体の内圧を圧縮する砥石として能動的に機能する。桐生が選択する軽自動車という移動バッファ、および実家での孤食は、社会の通信ポートから切断された独りの記号である。軽自動車の構造と、車内に響くラジオのノイズは、外界の標準ネットワークから個体を絶縁する防波堤として成層される。

プライベート領域において成層される、ベッドが水で浸されていく視覚的な像(Image)は、個体の内奥に秘匿された原質そのものの描写ではない。それは、マジョリティの同調圧力(母岩)と個体の絶対的絶縁とが衝突し、その摩擦熱が閾値を超えたことで、生存域の構造そのものが書き換わった相転(Manifestation)の決定的な外観的側面である。 シーツが水分を吸収し、繊維の奥へと液体が浸透していく微細なカットは、言語化を免れた不透明な原質が、地表下で静かに内圧を高めていることの、場における変容の影に他ならない。この水は、支配的なシステムが要請する均一性を物理的に決壊させ、カテゴリーの境界を溶かす、静的な転移(Transition)の帰結である。ここで現れる像は、すべてを無化する真空ではなく、意味の充填を保留したまま形式だけを維持する空間、すなわち中空4のバッファ領域への領域的転換を告げている。他者を理解しようとする全体性、すなわち暴力を遮断するインターフェースの必要性が、この侵入する水の像によって、観測者の網膜へ決定的に接地される。

1.2. 学校システムの拒絶

システムに最適化された人間のみを正常と断定する管理回路に対し、自律的な脱退を遂行する絶縁層の形成である。

横浜の検事・寺井啓喜(稲垣吾郎)は、動画共有プラットフォームへの参入を希求する息子の泰希(潤浩)に対し、画面の向こうにいる10歳の人気YouTuberを指して、「世間ではこういうのを詐欺師っていうんだ。嘘、まやかし、耳障りのいいことばかり言って人から金を巻き上げる。この子もだいぶ稼いでるぞ、課金とか広告収入で。父さん詐欺師はいっぱい見てきたからな、わかるんだ」と言語的排除を執行する。相手が10歳の児童であろうとも、マジョリティの再生産インフラ(義務教育や健全な育成環境)の感知圏外で自律的にマネタイズを行う存在は、寺井の統治プロトコルにおいて「詐欺師(バグ)」として等価に処理される。この過剰な拒絶は、システムから逸脱していく実子への、予防線としての抑圧構造を物質化している。机の上に置かれたタブレット端末の無機質な輝きと、父親が発する硬質な音声は、システムに最適化された人間のみを正常と断定する、管理回路の作動音そのものである。寺井は、均質化という名の暴力を物理的に反響させる高圧釜の壁面として機能している。泰希の視線が吸い込まれる動画投稿の画面は、社会の提供する教育基底への接続を拒絶し、独自の生命回路を開鑿するための電子の窓として機能している。寺井が息子に対して行使する「普通の教育」「学校システムへの復帰」という圧力は、個体を管理可能な記号へと回収しようとする母岩の引力に他ならない。しかし、この「正しさ」の強要は、家庭という密閉された熱力学系においては、ただの「排除の論理」としてしか作動せず、父性と子息の間の物理的な接地線を切断していく。ミシェル・フーコーが看破したように、近代の統治権力は個体を矯正し、管理可能な主体へと成層することによってその権力を浸透させる3。寺井の駆動する「正しさ」の回路は、泰希の部屋の扉の前で完全に空転し、役割としての父性は機能不全を起こす。

不登校児の集まりを主催するNPOの職員・右近一将(鈴木康介)の協力を得て、泰希は出会った友人と共に動画配信を実践し、活き活きとした姿を見せ、登録者数を伸ばしていく。しかし寺井はそれを理解しようとはしない。電子レンジで温められたレトルトカレーが並ぶ食卓、動画の企画や視聴者の話で散らかった居間、そして風船の企画でありながら風船を膨らませようとしない寺井の動態。ここに横たわる不連続な沈黙や会話の完全な不在は、回復すべき絆の喪失として感傷的に解釈されるべきではない。それは、最適化された共通システムの通信プロトコルが、個体の特異な原質によって遮断された、厳然たる物理的事実の現れである。統治の浸透圧が高まれば高まるほど、その正しさは加害の基底へと変異し、両者の境界線はコンクリートのような硬度で凝固していく。この家庭内の不全は、単なるコミュニケーションの拒絶ではなく、社会システムが要請する「適切な発達段階」というMatrixからの、個体による自律的な脱退(デタッチメント)の初動である。泰希の不働という形態は、外部の感知網に対する「沈黙による絶縁層」の形成であり、寺井の言葉は、その絶縁層の手前で物理的に跳ね返され、意味の摩耗を繰り返すのみとなる。

1.3. 均質空間の生理拒絶

社会通念の非対称な視線に対し、個体の生理的拒絶を生存のための絶対的な防衛線へと反転させる組成変異点である。

大学生の神戸八重子(東野絢香)が公共交通機関での男性との接触を契機として引き起こす過呼吸の身体的動作は、マジョリティの非対称な視線に対する肉体的な戦慄と、内なる原質(Primal Matter)の不可侵領域を守るための生理的拒絶の露出である。電車から排出された外の空間における、彼女の呼吸筋が不規則に収縮するカットは、記号化された安全の皮膜が破られ、母岩(Matrix)の圧倒的な重圧を受けながら、内なる知性が生存のために別の状態へと移行していく転移(Transition)の位相である5。彼女の空間行動は、男性を徹底的に排除する絶縁回路を形成する。これは欠落を悲哀として扱うのではなく、支配的な規範を遮断する絶縁体として個体の基盤に組み替える動態に他ならない。本稿が一貫して追跡してきたこの「欠落の基底」は、個体が現在の地表でサバイブするための孤高の砦を築き、やがて社会OSの感知網の射程外において、独自の位相差(Phase Difference)を保持した固有形象(結晶)へと成層していく。

この個体の防衛戦線に対し、寝具店という労働空間においては、より陰湿な同調圧力が駆動している。婚姻と生殖という、共通システムが推奨するライフステージを内面化した同僚・那須沙保里(徳永えり)は、マットレスの並ぶ均質な空間において、桐生のプライベート領域へ執拗に侵入する。実家での朝食時に母親から「子どもはますます減るばっかりじゃねぇ」と告げられる血縁の圧力を経て、ショッピングセンターにある寝具店で就労する桐生。そこで妊娠中の同僚が発する「30過ぎたら出産ぶち大変じゃけえ。そっからさらに育てにゃあいけんのんよ。一人で気楽なんかもしれんけど、このままじゃとあとがきつうなるいっぽうじゃけえ」という欺瞞に満ちたケアの言説は、自らの加害性に盲目なマジョリティが、異質な個体を同一性の金型へ嵌め込もうとする作法である。これは相手の不在を認識せず、自らの独善を投影するだけの閉じた閉路であり、このシステムの加害性が最も端的に露出する点である。

摩擦の裏側で、社会の監視網には機能的な綻びが露出している。検察庁の寺井は、万引きした被疑者の女性との対話を処理する傍ら、公共の水道から蛇口を窃盗し「水を出しっぱなしにすることがうれしかった」と供述した新聞配達員・藤原悟の事件に直面する。新聞記事のコピーと、同僚・越川秀己(宇野祥平)がまとめた特定の志向に関する雑多な情報は、マジョリティの道徳や経済的合理性の射程外で駆動する、純粋な物質的フェティシズムの構造的実在を裏付けている。あるべき機能の欠落、すなわち蛇口の喪失が、特定の個体にとっては回路を駆動させる動力源となる事態。社会の仕組みからバグと判定された藤原の行為は、最適化された地表を引き裂く、硬質な異物の突出である。

自己を完全に説明し得ない、あるいは説明することを拒絶する不透明性こそが、マジョリティの包摂プロトコルに対する個体の防衛線となる。この、他者からの「理解」や「説明義務」の要請を根底から無効化する不透明性の倫理は、マジョリティの言語回路による簒奪に抗うための、静かでありながら決定的な生存の防波堤である6

この不透明性を巡る摩擦と防衛の動態は、大学のキャンパスにおいて推進される「ダイバーシティフェス」の空間において、より過酷な均質性の圧力として立ち現れる。

大学のキャンパスにおいて推進される「ダイバーシティフェス」の企画運営は、現在の地表が要求する「包摂と多様性」の欺瞞を最も過酷な形で物質化する空間である。学祭実行委員・神戸八重子が推進するその言説は、個体の抱える不透明な異物感を「理解可能な記号」へとコード化し、プラットフォーム資本主義の母岩(Matrix)へと回収するための高度な統治技術である。その空間分配・肉体統治の象徴として機能するのが、所属するサークル「スペード」が披露するダンスの、一分の隙もない均一なステップである。カメラは、代表の高見優芽(坂東希)を中心としてフォーメーションを組んで踊る学生たちの肉体を、幾何学的な構図で捉える。多様性を標榜する空間でありながら、個体の肉体には一糸乱れぬ調和と秩序ある動き、および同一のダンスステップを強いるという皮肉な構造が、画面のパースペクティブによって構造的に視覚化される。

この均質性のダンスの内部において、諸橋大也(佐藤寛太)の身体は構造的な軋みを上げている。諸橋の内奥に圧縮された、社会OSのいかなる記号網(カテゴリー)にも飼い慣らされることのない生命の地力――すなわち原質(Primal Matter)は、ダンスという表層の身体言語によって偽装され、マジョリティの視線から徹底して隠蔽されている。神戸からフェスへの出演を打診された諸橋が、文化の背景や表層のみを簒奪するマジョリティの欺瞞を峻絶に告発するとき、多様性の包摂ポートは機能不全を起こしてショートする。フェス当日において展開される、同一の衣装を纏い、一糸乱れぬ秩序化された身体技法によって遂行されるダンスパフォーマンスは、過度な均一性へと狂奔する現在の統合システムの縮図である。その秩序の幾何学的中心において、諸橋が放射(Radiation)する怒りの身体表現は、調和という名の檻に対する肉体の戦慄である。関節が軋み、筋肉が緊張するカットの連続は、記号の洗練に対する物質性の反逆として成層される。

結婚式の幹事をする夫婦からのアプローチをやり過ごし、周囲から佐々木の帰郷を告げられた桐生のフラッシュバックと同期するように、システムから完全に切断された諸橋の個室のフローリングにおいて、液晶画面に映る水の運動(像)を視覚的触媒とした、肉体的な排熱の動態が遂行される。画面から漏れる青白い光が諸橋の皮膚を照らし、静まり返った室内で衣類が擦れる微細な音響が響く。停止した時計の針のように、社会的な通信プロトコルはここでは無効化されている。

この行為は、世俗的な意味での自慰や、既存のカテゴリーに回収可能な「性的欲望」の充足では決してない。それは、ダイバーシティという名の均一な檻(母岩)によって限界まで圧縮された個体の内圧を、システムの感知網の外側へと逃がすための熱力学的排熱(ドレイン)回路の作動である。液晶画面に明滅する液体の流動(像)は、五相回路の外部から個体の原質を励起させ、閉鎖回路における相の転移(Transition)を誘発する触媒として機能している。その終端において流される生理的な液体は、快楽の記号ではなく、過酷な環境のなかでエネルギーを消散させながら自律性を死守する、生存回路の固有の物理的実体である。

個体はマジョリティの包摂も理解も求めてはいない。マジョリティが差し出す理解とは、個体の固有形象を均質化する暴力に他ならないからである。意味の交換を完全に拒ぜつし、過剰な意味論を無害化・排熱する中空の室内にこそ、社会OSの射程外で静かに息づく、自律した原質の不可侵な核が成層されている。

2. 映画正欲の生きづらさ:不透明な隣接の成層

最適化された社会OSの金型が個体の内圧によって変形し、擬態の衣服を纏った個体群が意味を排した中空の生存回路を起工する界面である。

第2章の構成的概略:

本章では、家庭、職場、大学という初期母岩(Matrix)が機能不全を起こして崩落するプロセスと、そこから絶縁された個体群が、意味や共感を排した「隣接」という静的な生存回路を再起動していく動態を測量する。電子レンジが放つ加熱の電子音から、大晦日の深夜にタイヤがアスファルトを削る摩擦音、そして無音の個室で明滅する液晶の青い光にいたるまで、画面に堆積する物理的質量を解析し、マジョリティの包摂プロトコルに対する「不透明性の防壁」がいかにして共同擬態(結晶)へと成層していくかを逆算・測定する。

2.1. 時間の氷結と大晦日の転移

地方都市の噂話という閉鎖的母岩から佐々木の帰郷を察知した瞬間、桐生の肉体は時間軸の反転を経験する。

中学時代という極めて同質的なスクールOSの内部において、校舎裏の水飲み場の蛇口をブロックで破壊し、激しく噴出する水の運動を全身に浴びて静止していた桐生と佐々木。あの瞬間、二人は社会が規定する正常な時間の進行を停止させ、不在の気配だけで場を支配する静的な抵抗を回路に組み込んでいた。ブロックが金属の蛇口に激突する鈍い音、コンクリートに叩きつけられる水の飛沫、そして濡れそぼった制服の重みは、現在の地表における反転の伏線として肉体に沈殿している。夜、回転寿司店で佐々木と女性の食事を目撃した桐生が、店外で待ち伏せ、彼らの車両を尾行するプロセスは、抑圧された原質(Primal Matter)が再駆動を始める初期微動である。鉢を投げつけて窓ガラスを叩き割る破壊衝動、明るいプールに浮遊する水の記憶、そして「いなくなならないで」という内なる残響は、共通システムの通信網から個体を切断する臨界直前の過渡期(転移)を示している。

横浜への移動によって一度は切断された二人の軌跡は、大晦日の冷え切った地表において決定的な交差を迎える。年越しそばをすする実家の居間において、幼児が一人で課題を遂行し自立していく様を消費する番組を注視する両親とのチャンネル争いは、初期母岩との非和解的な切断を決定づける。画面に映る幼児の単独行動は、両親にとっての微笑ましい成長記録ではなく、佳道にとっては地表に適応するために「生存の身振り」を義務づけられてきた孤独な訓練のログに他ならない。

直後、自壊衝動から車両を暴走させた桐生の軽自動車は、路上を自転車で走行していた佐々木を轢過する寸前で急ブレーキを踏む。タイヤがアスファルトを削る摩擦音、ヘッドライトが照射する夜霧の白さ、急激な減速の重力は、個体の生存確率を強制的にリセットする研磨(Polishing-Phase)の瞬間である。

佐々木の買い物袋に詰まった自殺グッズ――ガムテープの密閉性や、硫化水素の発生を予告する文字の配列――を目にした瞬間、二人の間に「絶望の完全な同期」が完了する。それは帰属先の根源的不在を証明する物質的定数である。「大晦日とか正月って人生の通知表みたいな感じがする」と呟き、「俺の親が交通事故で死んでさ、電話受けたとき、俺良かったと思ったんだよね。悲しいより先に。俺がこういう人間だって気づかないうちに死んでくれた」と告白する佐々木に対し、窓ガラスを割った事実を告げて謝罪する桐生。それに対し「人間とは付き合えない」と返す佐々木の構造的な拒絶。これに対し、自らを「地球への留学生」と規定し、自然に生きられるマジョリティにとっての「楽しい場所」から受ける傷を静かに語る桐生の独白は、佐々木に「自分が話しているのかと思った」という驚愕をもたらす。心理的な共感や意味の交換を排し、互いが決定的に分かり合えないという「中空のバッファ領域」を保持したまま並走する、絶縁体としての隣接がここに起工される。

2.2. 初期母岩の機能不全と自己説明の加害

標準OSに適応できない家族の機能不全を視覚的に成層し、マジョリティの「良意」に偽装された簒奪を拒絶する排除の境界線である。

検察庁に勤務する寺井の家庭内においては、電子レンジで加熱される夕食のオムライスという空虚な記号の傍らで、通信網の機能不全が露呈する。不登校の息子が「お父さんに僕がやっていることを見てもらって理解してもらいたい」と、水鉄砲の動画撮影のために水辺に連れて行ってほしいという願いを発信する。これに対し、寺井は「逃げ癖のついた人間は生きづらいままだ」という社会OSの標準規格を強要する。妻・由美が「話を聴いてやってよ」と言葉を添え、動画の音声編集は右近が担当していること、自身も風船を膨らませるなどして撮影に協力している事実を挙げて仲介を試みるも、寺井はふてくされて食事を放棄し、浴室へと逃避する。この、家庭という初期母岩の内部で発生する対話のフリーズは、システムが強いる「正しさ」が個体の生体回路を圧迫する高圧釜(Matrix)の本質を物質化している。

のちに寺井の家庭において、息子の「たいやきチャンネル」が突然のアカウント強制停止(バン)に直面するシークエンスは、システムによる機械的な排除を告げるシグナルである。動画共有プラットフォーム上のコメント欄を媒介に小児性愛者のネットワークが検出され、広告主の撤退を受けた運営企業が未成年者の出演するチャンネルを一斉に凍結する規制を敷いた結果、実子の活動はそこに巻き込まれ、破裂(Rupture)する。

コメント欄の繋がりこそが息子の生存動機であったと主張し、社会の厳格な規制に絶望する妻に対し、寺井は「性犯罪を抑止するための客観的妥当性」を頑なに崩さず、システムの正当性を説く。しかし、「普通じゃないかもしれないけど、こういう育ち方もあるのかもしれない」と実子の個別性を認めようとする妻に対し、寺井が「社会のバグ(異常者)は本当にいるの」と言い放った瞬間、社会OSの正しさは家庭の内部を切り刻むメスへと変異する。この「正欲」の暴走は、実子をバグ(異常者)と同列に処理する言語暴力となり、妻の精神的号泣と、父親を物理的に拒絶して母親を庇う息子の肉体行動によって、家庭という再生産インフラを完全にショートさせる。

この初期母岩における抑圧は、職場の寝具売り場における桐生の地平でも変奏される。妊娠している同僚の那須が、業務中に展開する「あんたいつも独りぼっちじゃけえ話しかけてやっとるのに何なんその態度」という肥大した自己説明は、マジョリティの「良意」に偽装されたエゴイスティックな統治技術(マウント)に他ならない。那須は桐生が自身を妬んでいると思い込み、「可哀想じゃけえ気を使っとんよこっちは。うちらに気を使わせんのもハラスメントととちゃうん」という、自己の正当性を微塵も疑わない言語暴力を射出する。白いマットレスの背景と、その無自覚な加害性を無言で睨みつける桐生の黒い瞳の対比は、他者からの「理解」や「配慮」という名の簒奪を根底から無効化する、不透明性の防壁を網膜に焼き付ける。

同時期、トラックの屋台でホットドッグの調理バイトに従事する諸橋のもとへ、神戸が押しかける事象が発生する。「あんただよね、スペードのインスタに捨てアカ使っての俺の写真もっと載せてくれって送ってきたの。そういうのうんざりなんだ」という諸橋の低いトーンの拒絶に動揺し、ホットドッグを路上へ落下させる神戸の肉体動作は、彼女の「理解可能な記号」による包摂プロトコルが物理的に拒絶された最初の亀裂である。

その後、大学の空間において神戸は再び諸橋に接近し、「私たち今が変わるチャンスのような気がしてさ」というお節介(包摂の強制)を投下する。神戸は泣きながら「私ね、男の人が苦手なの。ちょっとトラウマがあって。男の人が女の人を性的な目で見ているっていつこと自体無理で。でも不思議なんだけど、諸橋くんといるときは男の人が苦手な気持ちがなくなるの。いま二人きりでしょ。普通はそれだけで過呼吸になる。でもあなたとなら自然に息ができる。それって奇跡なんだよ私にとっては」と自己開示を行い、「生きづらかったね」と同情してもらえる記号の枠組みへ諸橋を巻き込もうとする7

しかし諸橋は、「同情してもらえるとわかっている過去を明かしてさ、辛かったね、生きづらかったねって、そんなやり方に俺を巻き込むなよ。なんであくまで自分は理解する側だと思ってんだよ。あんたが想像もできないような人間はこの世界にはたくさんいるんだよ」と、その自己説明の欺瞞を厳しい低音で一蹴し、包摂のネットワークを完全に切断する。ジュディス・バトラーが述べる不透明性の倫理――自己を他者に説明し尽くせない、あるいは説明する義務を拒絶する権利こそが、他者の他者性を抹殺する全体性の暴力に対する生存の防波堤となる6

神戸が「でも好きになっちゃうの。男の人もお兄ちゃんもめちゃくちゃ気持ち悪いのに。ごめんなさい。嫌な思いをさせてごめんなさい。私が一番気持ち悪いの」と自壊的な告白に陥る瞬間、諸橋は「誰が何をみてどう思うかは自由だと思う。あっちゃいけない感情なんてこの世にないから」と言葉を返す。この切断の先で発せられる言葉は、安易な共感やお情け理論を完全にパージした地点においてのみ成立する、原質同士の非相関的な肯定である。諸橋が「一人じゃなくて嬉しい」という生存のシグナルを中空に放射し、緩やかな接続の気配を互いに残しながらも、安易に交わらない距離を死守する描写こそが、マジョリティの感知網の外側で静かに成層する、自律した結晶の硬度を証明している。

2.3. 家族の擬態と非相関通信の起工

外部の社会OSが要求する世帯の通信プロトコルをダミーとして作動させ、形式を簒奪するポート・ミラーリングの成立点である。

バスで山を越え、人工的な滝の水流へと向かった桐生と佐々木は、カフェの空間において「世間並みの擬態」を選択する。佐々木が差し出す結婚指輪という冷たい金属の質感は、標準OSの監視網から逃れるためのダミー・プラグとして機能する。「この世界で生きていくために手を組みませんか」という提案によって開始される同居生活は、マイノリティの連帯といった安易な共同体幻想ではない。互いの固有領域を侵犯しない静的な距離感を維持しながら、朝食時にだし巻き卵を分け合い、食パンにマヨネーズを頬張り、卵焼きの対価として「お金を払うよ」と「いいよそのくらい」と距離を保つ動態は、中空の結晶が独自の構造的安定を得た段階を示している。

この指輪による社会的関係の仮設を衣服のように纏った状態で、桐生は他者のシステムと不意に交差する。惣菜店でカニクリームコロッケを購入した直後、後方から走行してきた学生の自転車と接触して路上に転倒した桐生の前に現れたのは、検察官の寺井である。散乱したコロッケを前に、寺井が「きれいなのは奥さんがいただくといいですよ」と無自覚な世帯の定型句を口にした瞬間、桐生は「どうして結婚していると思われたんですか」という非対称な問いを射出する。「分かり合える人と一緒に暮らしています。そちらは?」という、自己の配偶システムへの絶対的な盲信に対し、桐生は、他者(寺井)がすでに家庭の崩壊(「女房が子ども連れて実家に帰っていて」という事実)に直面している矛盾を構造的にパージする。見知らぬ他者に対して「ありがとうございました。のろけを聴いていただきました」と過剰な自己開示(擬態の反転)を遂行する桐生の言語動作は、マジョリティの「正しさ」の欺瞞を無害な挨拶によって内側から無効化する高度な防壁である。

その後、桐生と佐々木は、システムの外部領域である公園の噴水において、激しく噴出する水を浴びる自らの身体を撮影する。水に濡れそぼる肉体の像(Image)を液晶画面で見直す佐々木の指先は、かつてネットの底流(コメント欄)に刻まれていた「SATORU FUJIWARA」との直接的な接触、および彼が媒介する「服が濡れていることに固執する、もう一人の存在」へのアクセスポートが開通したことを告げている。画面のスクロール音と点滅の向こう側で、「社会の中にいる、地球の真ん中にいる気がした」「欲望があっていいもんだと思いたい」と呟く佐々木の音声は、固有の原質(Primal Matter)が他者性の抑圧を免れて固有の結晶を起工した瞬間の響きである。

「一回経験してみたいんよ、セックス。ほんとにしたいわけじゃなくて、その状況を体感してみたいってだけなんよ」という、標準規格への純粋な好奇に対し、佐々木が「変態だよみんな」と応じる空間において、二人の肉体は「裸になって性器を出し入れする」という生殖OSのプロトコルを徹底的に脱構築(デコンストラクション)する。衣服を着用したまま、布団の上で正常位の体位をただ純粋にトレースするその身体動作は、性的興奮や生殖の意味を排した「トレーニングをしているような不思議な動き」という機械運動へ還元される。佐々木に自身の身体へ覆いかぶさることを依頼し、かつて同僚が語っていた「愛おしい」という感覚の物理的な質量を確かめるように、桐生が「ここにいていいって言ってもらえたみたい。どうしよ。私もう一人で生きとった時間に戻れんかも。いなくならないで」と感極まって佐々木の身体にしがみつくカットは、意味を介さない肉体の並走であり、不在を構造の支柱とした、硬質で不透明な生存の「型」の成層である。

3. 映画正欲の結末の意味:不在の残響の放射

法執行の重力によって擬態のインフラが圧壊した跡地に、システムから機能分離された生存知性が残響として自律起動を始める界面である。

第3章の構成的概略:

本章では、擬態の衣服が剥ぎ取られた個体群の接続が、いかにして法の引力によって逆探知され、管理OSの内部へと強制連行されるかの崩壊プロセスを測量する。児童蹂躙という致命的な個別バグの摘発は、ただ純粋に水を通じて繋がろうとした無害な領域をも巻き込む広域パージへと突入し、個体の生存確率を根底からリセットしていく。取り調べ室の無機質な壁面において、自己を説明し得ない不透明性を最後の防波堤として差し出す主体の戦慄と、実体が引き剥がされた跡に残る「いなくならない」という繋がりの残響(放射)が、既存の社会規範による意味への回収を徹底的に拒絶する動態を記述する。

3.1. 暗転の通信と致命的バグの混線

記号の意味が剥奪された暗転の界面において、非相関的な符号の明滅が個体群の接続を最外殻で成層する成立点である。

着衣の疑似セックスの緊迫の果てに訪れる画面の暗転。そこからフェードインするSNSのメッセージ通知音と無機質なテキストの明滅は、個体群の接続が「意味の言語」から「非相関的な符号」へと完全移行した瞬間である。

暗い画面を滑るように流れるテキストを通じて、桐生夏月、佐々木佳道、あるいはかつてネットの底流に刻まれた「SATORU FUJIWARA」が媒介した水フェチの個体群(諸橋大也、矢田部陽平)の3人は、現実の物理空間において面会を果たす。それぞれが「水」に対して抱く固有の指向や、衣服が濡れることへの偏愛のログを交換し合うプロトコルは、マジョリティの感知圏外で自律駆動する、純化された結晶の形態であった。

しかし、この中空の通信網は、メンバーの一人である矢田部陽平(岩瀬亮)の「児童買春の疑い」による家宅捜索という破局によって、一瞬にして逆探知の引力へと引きずり込まれる。幼児に対する損壊および性的搾取行為は、明確な社会的逸脱(犯罪)であり、ここにおいてマイノリティという属性は免罪符として機能しない。この致命的な個別バグの摘発を契機として、社会OSの強力なサーチライトが、矢田部が二人に送信していた通信ログを端緒に、他者を損壊することなくただ水を通じて生存しようとしただけの無害な領域(諸橋・佐々木)をも一網打尽に破壊する広域パージ・プロトコルへと突入する。日常の平穏は、衣服が剥ぎ取られるように急速に液状化していく。

3.2. 尋問の幾何学と主体の戦慄

全体性の暴力として作動する法の金型に対し、自己を説明し得ない不透明性を防波堤として差し出す静固たる主体の戦慄である。

横浜地方検察庁の検事室における対峙は、法による管理OSと、バグとみなされた原質(Primal Matter)の非情な幾何学である。寺井は押収された「水の動画」、および矢田部が自らの息子と同世代の小さな少年を蹂躙する児童買春の映像を同僚の越川とともに確認し、激しい義憤を燃焼させる。「この子たちなんてまだ自分が受けた被害が何なのかわかっていないだろうな。お前らみたいなのがいるとおちおち子育てもできないよ」という寺井の激越な糾弾は、マジョリティの生存再生産(子育て・家族)のインフラを保護するための、正当防衛としての法執行の重力を物質化している。

しかし、その正しさの網は、公園で子供たちと同じフレームに映り込んでいた写真や映像を根拠に、佐々木をも小児愛者(ペドフィリア)と混同して疑うという、認知の致命的なバグ(誤認)を発生させる。取り調べ室において、諸橋が「水が好きなんです」と主張するのに対し、寺井はそれを犯罪を隠蔽するための「言い訳」として硬質に切断し、諸橋の「それが罪なんですか」という存在論的な問いを黙殺する。寺井の認知プロトコルは、理解できない異物をすべて同一の「異常」として一括分類する均質な金型に他ならない。エマニュエル・レヴィナスが記述したように、他者を「理解」し、自己の全体性へと回収しようとする試みは、他者の絶対的な他者性を侵食する暴力である8。寺井は、自分が正しいと信じて疑わなかった社会OSそのものが、他者の生存基盤を侵食し、窒息させる加害性(2.2における那須の言語暴力や職場の妊婦が体現する正しさの押し付けと同質のもの)であったという驚愕的な事実に直面していく。

佐々木は「僕はみなさんの世界で怪しまれないように、自分がどんな人間かばれないように、明日生きたいふりをして生きてきました」と、社会OSに適応するために摩耗し続けた主体の動態を、静静たる独白として告白する。この言葉は、生存を脅かされ続けた個体が、法の前で絞り出す「峻烈な戦慄」のログである。取り調べ室の無機質な壁面に反響する佐々木の音声と、一切の身振りを排したスタティックな身体のカットは、自己を説明し得ない不透明性を最後の防波堤として差し出す、ジュディス・バトラーのいう不透明性のリアリズムそのものである6。しかし、マジョリティの「わかりあう」という清潔な幻想に固執する寺井の認知には、その複雑な論理組成は一切パッチされない。

3.3. 断絶の界面と残響の起工

実体が引き剥がされた空間において、不在を基底に据えた生存知性が次なる原質を覚醒させる放射の誘発点である。

かつて存在した藤原悟の記事を再確認し、自身の正義の座標軸を繋ぎ止めようとする寺井の前に、単身検察庁へ乗り込んできた桐生が現れる。被疑者となった佐々木らが「子どもに興味を持っているか」「水に何か特別な思いがあるか」という寺井の形式的な追及に対し、桐生は「誰に説明したってわかってもらえない者同士どうにかつながりあって生きているんです。あなたが信じなくても、私たちはここにいます」と、マジョリティの法の前で毅然と自己の存在を確定させる。彼女の言葉は、感傷を排した後記号的な構造的耐性の獲得を示す、最も硬質な生存プロトコルである。真っ直ぐに検事を見つめる桐生の網膜のアップは、主体と外部領域の摩擦が臨界点に達し、生成域が別の構造へと書き換わる相転(Manifestation)の瞬間である。

桐生はさらに、標準OSの「正しい家族」を体現していたはずの寺井に対し、「戻ってこられましたかご家族は」という非対称な逆質問を射出する。寺井が「調停中です」と、自らの母岩の完全な破綻を告白せざるを得ないこの断絶の界面において、マジョリティの法と逸脱者の領域は完全に切断される。戦後日本の芸能空間が孕む歪み9に対する沈黙を包摂したこの空間において、桐生が寺井に言い放つ、拘留中の佐々木に対しての「いなくならないから」という短い伝言は、実体が引き剥がされた跡に残る静かな波動、すなわち放射(Radiation)として空間に定着する。

この残響は、社会OSの感知圏外で駆動する生存知性の最終実装である。理解という名の搾取を拒絶し、不在を基底に据えたとき、初めて個体は「社会的な型」から解き放たれる。既存の規範とは全く別のロジックで組織された「逸脱の美学」が、現実に芽吹き始める。

結論:映画正欲のテーマの核心――地表の穿孔と切断

本稿において解剖してきたのは、現在の地表における均質化の圧力と、それに抗して中空のバッファ領域をインフラへと組み替える個体の変異の軌跡である。作品が提示する水の相は、情緒的な癒やしではなく、社会OSの包摂ポートを物理的に決壊させる硬質な演算素子であった。登場人物たちの隣接は、全体性の暴力を遮断し、外部の高圧を接地するための負荷分散回路として機能した。そこに「同じバグを持つ者同士の連帯」という甘美な救済は存在しない。完全な融和も拒絶された静的な断絶のなかで、地表下に定着した中空の構造は、既存の社会規範による「意味への回収」を徹底的に拒絶する。

原質は決して破壊されることのない不可侵のコアであり、この未完のまま突き放された不在の強度は、読者の管理網を絶縁し、社会OSの感知圏外へと個体をデタッチメント(分離)させる穿孔作業として完了する。この硬質な知覚の成層を踏まえ、次回は、さらに過激な物理的質量をもってシステムそのものを内側から爆破する、暴力という致死量の電圧が作動する表現構造の解剖へと移行する。個体が自らの形式を簒奪し地表を震撼させる、非情なる動態の記録はここからさらに加速する。

関連論理の参照(結晶の放射)

位相の接続点:『正欲』が「生殖再生産(家族・労働)」という管理インフラを、非相関な個体の「共同擬態」の絶縁を通じて不在の基底へと着地させるならば、『桐島、部活やめるってよ』は「カースト(中心の空洞)」という秩序の仕様を、不自由なデバイス(カメラ)の研磨を通じて世界観の再編へと導く、マジョリティの社会OSを内側から破砕する同質的な位相の連鎖である。

  1. 前回記事「『この世界の片隅に』| 記号の漂白と「不純な共同体」の成層」では、戦時下という極限の母岩において、喪失された身体の記号がどのように漂白され、欠落した余白が「不在の基底」として共同体の周縁へと転換されていくかを分析した。そこでは、意味の充足に依存しない生存回路の再敷設プロセスが明らかにされた。
  2. マジョリティが自らの「正しさ」や優位性を脅かされない安全な圏内から、マイノリティに対して「理解」や「共感」という恩恵を一方的に差し出す統治の作法。異物の凹凸を「理解可能な記号」へと漂白し、自らの管理回路へと包摂するための高度な自己防衛機制であり、本質的には他者性を抹殺する全体性の暴力。
  3. Michel Foucault, Histoire de la sexualité, tome 1 : La volonté de savoir, Éditions Gallimard, 1976. 日本語訳:ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳、新潮社、1986年)。
  4. すべてを消去する「真空」というロマンチックな表現を廃し、意味の充填を保留したまま形式だけを維持する空間。過剰な意味論が個体の内部に侵入した際、それを一時的に滞留させて無害化・排熱する「意味の排水溝(ドレイン)」を指す。
  5. ここでの呼吸筋の激しい収縮は、外部環境との物理的摩擦によって原質を露頭させる「研磨」の段階ではなく、母岩の圧力が臨界点に達したことで、個体内部の不透明密度が急激に変異を起こす動的な推移(転移)として測定される。
  6. Judith Butler, Giving an Account of Oneself, Fordham University Press, 2005. 日本語訳:ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』(佐藤嘉幸・清水知子訳、月曜社、2008年/新版、2024年)。ジュディス・バトラーは、主体が自己の起源を完全には言語化し得ない「不透明性」を抱えていることを指摘し、マジョリティが強いる「自己説明の強制(透明化の要請)」自体が内包する倫理的暴力を暴いた。
  7. 朝井リョウによる原作小説においては、神戸八重子の男性恐怖の背景として、引きこもりの実兄のPC内に自身を対象とした近親相姦的アダルト動画を発見したトラウマが明示されているが、映画版においてはその原因を不透明なブラックボックスとして処理することで、肉体的な拒絶の質量をより純粋に際立たせている。朝井リョウ『正欲』(新潮社、2021年)。
  8. Emmanuel Levinas, Totalité et Infini: Essai sur l’extériorité, Martinus Nijhoff, 1961. 日本語訳:エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限:外部性についての試論』(合田正人訳、国文社、1989年)。『全体性と無限』(上・下、熊野純彦訳、岩波文庫、2005–2006年/藤岡俊博訳、講談社学術文庫、2020年)。
  9. ジャニー喜多川性加害問題。2023年に表面化した、旧ジャニーズ事務所創設者による少年への組織的性加害。メディア側の長年にわたる報道忌避の構造を含め、戦後日本の芸能・報道空間の最大の歪みとして露呈した。本作において、かつて同問題の当事者性を孕む環境に身を置いていた人間(稲垣吾郎)が「少年の蹂虙を絶対に許さない検事」を演じる構造は、現実のメディア構造に対する極めて硬質なメタ批評として機能している。

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