時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『シン・ウルトラマン』:システム信頼の終焉と「非合理な愛のコスト」

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理SFとポストヒューマン2020年代

システムの極北で、正しさという名の暴力が私たちの生存を否定するとき、人間はいかにしてその絶望を愛することができるのか。2022年に公開された『シン・ウルトラマン』は、単なる空想科学映画の枠を超え、システムへの信頼が完全に崩壊した現代社会への冷徹な審判として機能する。「空想と浪漫。そして、友情。」というシンプルで力強いキャッチコピーが、宇宙規模で貫徹される完璧な合理性と対峙する時、そこにはシステム不信が頂点に達した現代だからこそ響く、根源的な問いが浮かび上がる。私たちが日々感じている、社会システムという巨大な機械に対する無力感と、それでも捨てきれない生への執着。その双方を極限まで純化させた先に待つ結末は、あなたの心にある正義の定義を根底から覆すだろう。

【都市の秩序と、残された静寂】

作品データ
タイトル:シン・ウルトラマン
公開:2022年5月13日
原作:成田亨(原典『ウルトラマン』)
総監修・企画・脚本:庵野秀明
監督:樋口真嗣
主要スタッフ:尾上克郎(准監督)、市川修・鈴木啓造(撮影)、宮内國郎・鷺巣詩郎(音楽)
制作:TOHOスタジオ、シネバザール
製作:円谷プロダクション、東宝、カラー

序論

本稿は、連載企画【時クロニクル】の、大テーマ【システム的信頼(クレディビリティ)の終焉:可視化された不信と『正当性』のフロンティア】を締めくくる最終回である。本連載を通じて、1980年代のバブル経済から2020年代に至るまで、社会システムがいかにしてその『正当性』を主張し、そしていかにして人類の信頼を内側から裏切ってきたか、その変遷を追ってきた。経済の自壊、情報の欺瞞、そして管理社会の到来。この長い旅路の果てに、直面するのは、2022年に庵野秀明(企画・脚本・総監修)と樋口真嗣(監督)が世に放った『シン・ウルトラマン』が提示するシステムの極北である。

[前回の論考]では、伊藤計劃の『虐殺器官』を通じて、言語という高度な情報システムが、集団の倫理を透明化し、個人の責任を不可視化する構造を分析した1。最終回となる本稿では、その情報の論理を、さらに上位の、宇宙的規模の超・合理的論理へと接続させる。専門用語の核心を捉えるならば、システムがその倫理的機能を放棄し、自己保全を至上とする自己準拠性(Autopoiesis)の論理が、いかに人類全体をその管理下から排除し得るのか、という課題が本質である。本作は、人類が築き上げたシステムへの信頼が、外星人ザラブ、メフィラス、ゾーフィという三段階のシステム的背信行為によっていかにして崩壊していくかという、構造的なプロセスを描き切っている。経済システムの機能不全や情報システムの欺瞞を経験し、あらゆる『正当性』への不信を募らせてきた氷河期世代の視線は、ここでついに、反論不可能な『正しさ』による最終処分に直面する。この連載を締めくくるにあたり、問わねばならない。システム的信頼が完全に死に絶えた荒野で、人間はなお、人間であり続けることができるのかと。

この問いに対し、本稿は連載の規範に基づき、システム的な信憑性の崩壊の最終形態を、以下の三つの構造的な層(レイヤー)で厳格に分析する。

1. 構造化のレイヤー:外星人による三段階の機能の裏切り

ここでは、システムの自己準拠的論理が、外星人の登場によって段階的にエスカレートする過程を追う。ザラブ、メフィラス、ゾーフィの三者は、それぞれ異なる角度から人類のシステムの脆弱性を突き、不信を可視化する。

1.1. 第一段階:ザラブによる情報の裏切りとシステムの乗っ取り

ザラブは、人類のシステムを物理的に破壊するのではなく、情報そのものを詐称し、人類の信頼を内部から瓦解させようとする。彼は、ウルトラマンの姿と声、そして人類の公的機関(禍特対)の信頼性をコピーすることで、何が真実かという判断の基盤を崩壊させる。この段階は、インターネットやデジタル空間における信憑性がいかに容易に偽造され、公的権威が瞬時に失墜し得るかという、現代的な不信の原点(フェイクニュースやディープフェイク)を提示する。ザラブは、人類のシステムへの信頼を、情報操作という最も身近な手段で裏切る。

1.2. 第二段階:メフィラスによる倫理の裏切りと権力の移譲

メフィラスは、ザラブのような単なる情報詐称に留まらず、より巧妙に人類の倫理的な権威を簒奪しようとする。彼は、地球にベータシステムという超技術を供与する代わりに、人類の主権を平和裏に譲り受けるという、極めて合理的かつ合意に基づいた取引を持ちかける。メフィラスの行動は、人間の欲と怠惰というシステム内の脆弱性を巧みに突き、人類自身にシステムの管理者としての地位を自発的に放棄させるプロセスである。これは、技術システム(AI等)の利便性が、個人の意思決定能力や倫理的な責任を、いかに甘言によって外部の超存在へと移譲させてしまうかという、現代の技術社会における倫理の裏切りを象徴している。

1.3. 第三段階:ゾーフィによる存在の否定とシステム完結性

そしてゾーフィは、ザラブとメフィラスが提示したシステムの裏切りの最終的な結論である。彼は人類のシステムを乗っ取ろうとするのではなく、人類の存在そのものが宇宙の調和を乱すノイズであると客観的に判断し、完全な消去という究極のシステム的判断を下す。ゾーフィの論理は、感情や個別事情を完全に排した完ぺきすぎるシステム論理であり、人間性を置き去りにする技術と知性の加速を説く加速主義2の極致を具現化する。この段階で、システム的不信は頂点に達し、人類の生存権は全体の効用(Utility)という絶対的な大義によって否定される。

2. 倫理化のレイヤー:二つの官僚主義と『正当性』の喪失

ここでは、人類側のシステム(禍特対)と宇宙側のシステム(光の星)を対比させ、双方が抱える『正当性』の空洞化を分析する。

2.1. 禍特対の閉鎖性と内輪での意思決定

禍特対が巨大な危機に際して、作戦会議や危機分析のほとんどを閉鎖された会議室で行い、内輪の論理で意思決定を繰り返す描写は、庵野が関わる作品群(特に『エヴァンゲリオン』の特務機関NERV)に通底する、最小単位の共同体が抱える閉鎖性の表象である3。この内輪の描写は、公的機関が国民に対し透明性を持てず、一部の人間だけで時間と責任を転嫁しながら意思決定を行う、現代日本の官僚制的限界を鋭く風刺している。デジタル敗戦やパンデミック対応で多くの人間が目撃したのは、まさにこの優秀だが機能不全に陥った内輪の論理であった。

2.2. 長期主義的視点による最強の『正当性』

一方、ゾーフィの論理に対抗する際、人類が認識しなければならないのは、彼が決して悪ではなく有能すぎる官僚であるという事実である。彼の論理は、近年議論される長期主義(Longtermism)の極端な適用例として理解できる4。数億年続く銀河の平和と、そこに存在するであろう天文学的な数の知的生命体の幸福と比較すれば、現生人類という不確実なリスク要因を排除することは、確率論的にも功利主義的にも100%正しい結論となる。人類にとって最も恐るべきは、上位存在の悪意ではなく、この人間的な感情では太刀打ちできない正しさが、人類の生存権をいかに正当に剥奪するかという、倫理の透明化のプロセスである。

2.3. 究極のシステム的コスト転嫁と実存の問い

人間的な官僚機構(禍特対)の遅延と、宇宙的な官僚機構(ゾーフィ)の完結性。この二つのシステムに挟まれた時、そのコストは常に現場である人類全体へと転嫁される。ゾーフィの論理は人類の生存という究極のコストを、銀河系の調和という上位概念のために切り捨てる。この非情な判断の前では、集合的な規範として機能してきた『正当性』は、人類にとっての究極の非倫理を覆い隠す透明な膜となる。人類は、システム外部の投擲された存在5として、突如としてこの構造的な暴力に直面させられ、なぜ存在するのかという根源的な実存の問いを、逃げ場のない形で突きつけられる。

3. リアリティのレイヤー:不信の可視化と血を伴う選択

ここでは、システムの不信が可視化され、集団的な合理性によって個人の真実が支配される絶望的な状況下で、個人の私が信じる真実が、いかにシステムの論理に抵抗し、主体を確立するかを追う。

3.1. 街中での戦闘とカメラワークによる人間性の相対化

本作における街中での戦闘描写と、多用される俯瞰のロングショット(引いたカメラ)は、単なる特撮のオマージュではない。これは、ウルトラマンと禍威獣の壮大な戦いを、人間の尺度から切り離し、人類全体を宇宙的なシステムのノイズとして客観視する批評的な視点を提供する6。高層ビル群や街並みは、巨大なシステム論理が展開される舞台装置となり、その中で右往左往する人間やウルトラマンの姿は、峻厳な理性の極北で闘う個の小ささを際立たせる。このカメラワークこそが、システムの不信が可視化された世界におけるリアリティを確立している。

3.2. アポリアに直面した非合理な選好

ウルトラマンは、ゾーフィの警告を客観的に理解し、その「論理的『正当性』」を認識しつつも、自身が個として関わった人類の営み、すなわち個の価値を、システムの冷徹な機能主義から守ることを選択する。彼の行動を突き動かしたのは、ゾーフィの台詞「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」が示す通り、論理的な根拠を完全に欠いた選好(Preference)、すなわち愛に近い非合理な感情である。彼の行動は、デリダ的なアポリア(決定不可能性)7に直面した際の、論理を超えた決断として位置づけられる。彼は、宇宙の調和というロゴス(普遍的論理)と、神永新二という個への感情の間で、論理的に解決不能な状況に置かれ、非合理なギフトとして人類の生存を選ぶ。

3.3. 不合理な決断の代償と倫理的主体の確立

このプロセスは、システムが自身の自己準拠的論理を裏切り、個の価値をシステムの存続よりも優先するという、極めて非合理な決断主義である8。しかし、この選択は安易な奇跡ではない。論理を超越した好きという感情の介入には、明確なコストが伴う。ウルトラマンは自らの命(永遠の生)を差し出し、人類は上位存在による庇護という合理的な安全を失い、再び不確実な世界へと投げ出される。システムへの不信を抱く私が、その非人間的な論理を前に自己の生存と倫理的主体を確立する唯一の応答は、この血を伴う愛の選択に宿っている。それは、システム的な信憑性が完全に崩壊した世界における、人間の実存的な抵抗の表明である。

結論

『シン・ウルトラマン』は、人類の生存を否定する究極の合理的判断を、人類に突きつけた。経済も情報も、そして国家の大義も、ザラブ、メフィラス、そしてゾーフィの三段階の背信によってその虚構を剥がされ、システム的論理によって腐蝕し尽くされたとき、人類は理性の極北で人間であり続けるか否かを問われた。

本論考は、システムがいかにして『正当性』を喪失し、不信が可視化されていくかを追ってきた。この最終回において見出されたのは、システムへの信頼回復という甘美な幻想ではなく、論理の破綻した荒野で好きという非合理な選好を抱きしめて生きるという、孤独な覚悟であった。ウルトラマンの選択は、システムの論理的な帰結ではなく、論理の外部からの介入であった。これは、人間がこれからの時代を生き抜くための唯一の指針かもしれない。すなわち、システムに依存せず、システムに期待せず、しかしシステムの中で個としての愛と倫理を、代償を払ってでも守り抜くこと。

【システム的信頼の終焉】という物語は、ここで幕を閉じる。しかし、それは絶望による閉幕ではない。可視化された不信の向こう側に広がる『正当性』のフロンティアは、誰かから与えられるものではなく、私たち一人ひとりの不条理な選択によって、これから切り拓かれていくのである。

この論考では、宇宙規模の巨大なシステムと倫理を論じてきた。しかし、真の生の強度は、もしかすると、こうした巨大な物語の理性の最果てではなく、システムの外側、最もミクロで具体的な生活の現場にこそ宿っているのかもしれない。来週は、時事的な大義や国家のシステムから視線を外し、下町のリアルな生活力、すなわち非合理な情念と呪いの倫理が、いかにしてシステム不全の時代を生き抜く力を与えるのか、大阪のホルモン焼きの煙の向こうにその答えを探る。

  1. 前回記事「『虐殺器官』:氷河期の視座と「最適化された地獄」の予見」では、情報の論理が倫理的な主体性を奪い、集団の非倫理的な願望を代行する構造を論じた。
  2. 哲学者ニック・ランドの加速主義は、技術的特異点への急進的な移行が人間的な価値観を凌駕する冷徹な論理を提示する。
  3. 先行記事「『エヴァンゲリオン』:機能不全と「内面化された倫理」の二重負荷」を参照。同論考は、NERVの特権的かつ閉鎖的な意思決定構造が、巨大システム内部に存在する「内輪」の論理であり、それが外部の危機に対して機能不全を起こす構造を反復して描いている点を詳細に論じた。
  4. オックスフォード大学の哲学者らが提唱する、未来の何兆もの生命の価値を現在の生命と同等以上に重んじ、将来の実存的リスクを回避することを最優先する倫理的立場。
  5. サルトルの実存主義における「投擲された存在」としての人間は、世界に意味なく放り出され、自らの選択と行動で本質を築く。
  6. 脚本・総監修である庵野秀明が深く関与したロングショットや引きの画面は、個人の感情よりも構造や空間との対比を優先する手法であり、システムと個の断絶を表現する。
  7. 哲学者ジャック・デリダの概念。論理的な解決が不可能な状況下で、倫理的な「決断」が要請される状態を指す。
  8. 政治学におけるカール・シュミットの決断主義が、法の隙間で主権的な決断を要するように、ウルトラマンの選択は宇宙的論理の隙間での決断である。
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