アスファルトに刻まれたタイヤ痕、高架下の轟音、そして金属の増殖によって自己を破壊し尽くす狂気的な欲望。塚本晋也の映画『鉄男』(1989年)が描破したのは、単なる都市伝説やホラーの領域を超越し、システムという冷徹な論理が身体の倫理的な境界線を溶解させ、情動のみが残された最終局面である。本稿では、1980年代の機械的変容を現代のデジタルアルゴリズムによる人間性の剥奪と重ね合わせ、技術的合理性に対する非合理的な人間の回路の「機能」を論証する。具体的には、作品が描く鉄への変貌を、現代社会における個人のデータ化や行動管理という構造的問題へと翻訳し、論理の限界点において噴出するパトスがいかにしてシステムの目的関数を書き換えるのかを考察していく。
序論
本稿は、全5回にわたる連載企画【システムの「限界」からの倫理的超克:冷たい合理性の時代における「非合理な情動の機能」】の初動をなすものである。この試みは、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を辿り、技術が人間を包摂し、その主体性を解体する過程で失われた責任の所在を再定義することを目的とする。
塚本晋也による『鉄男』(1989年)は、バブル経済の絶頂期を迎え、すべてが肥大化し、機能主義的なシステムそのものが暴走を始めた時代精神を鋭敏に捉えた作品である。公開された1989年当時、日本の実質GDP成長率は5%前後を記録し、社会は経済的成長と技術革新という効率性の論理に埋め尽くされていた1。
[前回の論考]では、情報化社会における複製と隠蔽の構造を分析し、システムがもたらす忘却に対していかに個人の責務が真実を回復し得るかを論じた2。本稿では、その機能主義が個人の内奥である身体にまで侵入した際の、倫理的な超克の可能性を検討する。
1. 身体=鉄システム:冷たい合理性の機能的暴走
本作品における身体の機械化は、理性を排除した機能主義が、身体という実体を「情報的実体」へと置換していくプロセスとして定義される。
1.1. システムの論理的定義と欲望機械の起動
作品内で描写される金属の増殖は、理性や社会規範を介在させない自律的な機能の顕現である。サラリーマンの頬に現れた小さな金属片が、やがて彼の生殖器を巨大なドリルへと変容させる過程は、個人の欲望が外部の技術と結合し、制御不能な生産活動を開始する様を示している。これは、社会的な抑圧によって蓄積された情動が、システムの動力源として転用され、既存の人間的形態を破壊し尽くす「欲望機械」の起動に他ならない3。
1.2. 廃材と肉体の「運動」:システムへの直接的な抗争
本作の驚異的な質感は、極限の制約下での「肉体的労働」から生成されている。塚本は中古カメラ1台と3つのライトのみを武器に、燃えないゴミの日に拾い集めた廃家電のパーツを両面テープで俳優の肌に貼るという、徹底したDIYの手法を貫いた。自ら出演し、運動する過程で「体から脳に伝わるアイディア」を重視したこのスタイルは、理性的思考(脳)を身体的運動(情動)が凌駕するプロセスそのものである4。システムの廃棄物を肉体に再統合し、新たな機能を創出するこの営みは、構造に対する個人の直接的な抗争である。
1.3. 2025年におけるアルゴリズム・マネジメントとの接続
この構造は、2025年現代におけるアルゴリズムによる行動管理や、信用スコアリングの普及と驚くべき類似性を持つ。現代社会において、個人の行動や感情はデータとしてリアルタイムに監視・評価され、その信用性が経済的・社会的機会を自動的に決定するシステムの一部となっている5。私たちは、目に見えないアルゴリズムという「鉄」によって、日々その人間的特性をシステムの機能へと還元されているのである。
2. 倫理的主体の限界:回収不能な責任構造
システムが自律的な暴力性を獲得したとき、その内部に位置する主体は、自己の行動に対する責任を負い続けることの限界に直面する。
2.1. 都市の境界に出現する「道祖神」:男根ドリルという異形
これまで本作は「サイバーパンク」や「フェティシズム」の文脈で語り尽くされてきたが、本稿ではあえて「日本の土着信仰(道祖神)」という補助線を引きたい。特に男根がドリルへと変容する描写は、近代的な管理社会(システム)の深層に伏流していた道祖神的な性器崇拝、あるいは境界を守護する異形の力が、システムのバグとして表出したものと読み解ける。道祖神が災厄を防ぎ、豊穣を司る境界の神であったように、このドリルは管理可能な「人間」という境界を突き破り、理性が制御不可能な領域へと主体を強制的に連れ去る。
2.2. 構造的暴力のコストと責任の所在
この主体の解体は、システムが肥大化し、その機能維持のために個人に過度な競争を強いる一方で、システム自体の暴走による損害は個人の責任へと転嫁される現代の不条理と重なる。本作が描く「逃げ場のない侵食」は、個人の努力や意志では抗い得ない社会構造の冷酷さを先駆的に可視化しており、その倫理的コストが常に個人に押し付けられる現実を告発している。
2.3. 身体のブラックボックス化と自己決定権の終焉
自らの身体が「なぜ、いかなる機序で」変容しているのかが、当事者であるサラリーマン自身にすら一切不明(ブラックボックス)である点にある。この「自己の身体が未知の論理に書き換えられる」という生理的恐怖は、現代において個人の内面がデータ化され、意図せぬアルゴリズムによって人生の選択肢が「誘導」される構造と深く共鳴する。自律的主体という幻想が剥がれ落ち、個人の意志がシステムの不可解な出力結果に従属せざるを得ない事態は、現代的な無力感を鋭く象徴している。
3. 非合理な回路による倫理的超克:情動の機能性
システムの暴力的な包摂に対し、本作は理性的解決ではなく、非合理な情動によるシステムの再定義という過激な超克の回路を提示する。
3.1. システム外部への脱出:融合による破壊的再編
この金属化は、近代的な個人単位の消失であると同時に、他者(「ヤツ」)と溶け合うことで、個別の身体(システムの一部)を放棄するプロセスである。道祖神的なパトスを媒介にして混ざり合った二人の情動は、日常を粉砕する巨大な「鉄の塊」へと昇華する。この融合体は、もはや既存の社会規範には回収不可能な純粋な情動の運動体として、都市というシステムそのものを錆びつかせるために進撃を開始するのである。
3.2. コマ撮りの「ゆらぎ」とスピノザ的情動論
塚本が選択した「雑気味なコマ撮り」という手法は、情報の高精度な連続性を断絶させる。このガタガタとした不連続な動きは、システムの論理的なフィードバック・ループに対する「グリッチ」として機能する。精密なシミュレーションを拒絶するこの「意図的な雑さ」こそが、計算不可能な情動を映像化する唯一の手段であり、予測可能な構造を崩壊・再編させる武器となる。計算不可能な「ゆらぎ」が閾値を超えたとき、システムは情動という新たな秩序形成の原理に従って再編される6。
3.3. 世界的権威を沈黙させた情動の強度
この非合理な情動が生んだ映像美は、タランティーノら世界の鬼才を震撼させた。その評価は一時的なものに留まらず、塚本監督は1997年に続き2005年にもヴェネツィア国際映画祭の審査員として招聘されるに至る。インディペンデントな「個人システム」が生み出したパトスが、世界最古の映画祭という巨大な権威(システム)の中枢に二度にわたって迎え入れられた事実は、情動が言語や文化の壁を超え、構造そのものを再定義し得ることを映画史において証明している。
結論
『鉄男』は、システムが肥大化し、冷たい合理性が支配する時代において、個人が直面する倫理的コストと、その限界からの超克の回路を提示した。
生成AIやバイオテクノロジーが私たちの生をデータの集積へと還元しつつある2025年において、本作の警告は現実味を帯びている。システムがすべてを効率的に処理し、個人の意志を代替しようとする時、私たちは計算不可能な情動というグリッチをいかにして保持し得るのか。この問いは、単なる美学的な議論ではなく、管理社会における生存戦略としての倫理に関わっている。
この極限的な身体の論理は、次なる局面へと引き継がれる。冷徹な都市のシステムと、そこから排除された身体の衝動は、やがて別の形での「融合」を模索し始める。それは、社会規範という強固な構造の中で抑圧された主体が、ステップを踏み出し、他者とリズムを共有することで、閉塞した日常から倫理的な解放を果たすプロセスへと接続されていく。
- 内閣府「国民経済計算(GDP統計)」を参照。1980年代後半の高成長は、社会システムが個人の情動を「消費」や「生産」の資源として完全に回収しようとする機能主義の極致を形成した。↩
- 前回記事「『サマータイムレンダ』:システムを破る「バグ」と「不可逆な生」の選択」では、デジタル的な反復可能性に抗う身体の不可逆性と、その選択に伴う倫理的重圧について考察した。本稿はこの議論を継承し、身体そのものがシステムに侵食された際の構造的限界を追う。↩
- ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を参照。欲望機械は生産の場において直接的に機能するが、『鉄男』におけるそれは、都市の破片と結合し、社会構造そのものを物理的に粉砕する破壊的機能として定義される。↩
- 「『鉄男』はいかにして生まれたか? 塚本晋也監督が語る自主映画制作術」ログミーBusiness(2017年7月26日)を参照。塚本晋也は、廃材を再利用した造形や、あえて雑さを残したコマ撮りの手法を通じて、アニメーションの牧歌性を排した「ソリッド感」の追求を語っている。↩
- OECD AI原則を参照。AIシステムが意思決定を自動化し、個人のデータが信用性を決定する構造は、1989年当時の「鉄による侵食」が現代において「コードによる管理」へと進化したことを示唆する。↩
- スピノザ『エチカ』における情動論を参照。情動は身体の活動能力を増減させる力であり、理性的規範を越えて主体を再構成する物理的な契機となる。↩

