愛情という名の虚構的な快適性のもと、労働、交流、そして個人の価値がスコア化され、効率という名のアルゴリズムに支配される現代社会。
『約束のネバーランド』で描かれる、愛と安心に包まれたはずの孤児院が、最も冷酷な「人間養殖システム」であったという絶望は、読者の感情を強く揺さぶる。しかし、この物語が提起するのは、単なる「鬼からの逃走」ではない。それは、生命の価値を最大効率で算出する「最適化の原理」が、いかにして現代のデジタル社会と構造的に同一であるかという、私たち自身の存在を問う批評的課題である。最高の脳を生産する農園の論理は、現代社会で人間の価値を数値化する「最適化の原理」と本質的に同一であり、この不可視の構造的暴力への応答こそが、作品の批評的本質をなす。
序論
本稿は、【『悪意の主体』から『倫理の主体』へ:規範と喪失の時代における『私』の再定義】という大テーマに焦点を当てた全5回連載の批評企画の一部であり、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追うものである。マンガ原作(白井カイウ、出水ぽすか、2016年~2020年)、アニメ、実写映画など多角的に展開された『約束のネバーランド』を、現代的な構造批判の寓話として分析する。本稿の分析は、主に、農園からの脱出を試みる第一部(マンガ版の『グレイス=フィールドハウス脱獄編』、アニメ第一期、および実写映画版の範囲)に焦点を当てる。[前回の論考]では、映画『GO』における主人公・杉原の「知的・身体的な逃走」を、抽象的な社会規範に対する「個人の倫理的自立」の極点として考察した1。
本稿が扱う『約束のネバーランド』が提示する世界は、その論をさらに推し進め、個人の自立的な逃走では対処しきれない絶対的かつ不可視の全体システムが、生命の根源にまで及ぶ構造化された暴力を発動する世界である。本稿における「最適化の論理」とは、効率性と功利性を至上とする管理社会の原理を指し、「集合的知性」とは、個人が持つ知識と能力を結集し、システムを凌駕する戦略を構築する主体的な集団的応答を意味する。このシステムに対抗し、生存権の剥奪という危機から脱出するためには、個人による情緒的な抵抗は無効であり、その論理構造を凌駕する「集合的知性(集団知)」による戦略的な反逆が必要となる。本稿の目的は、子どもたちがデータによって手段化された存在から、いかにして知性と実践(プラクティス)を通じて自律的な倫理の主体へと変貌し、内在的な規範を再構築する責務を負ったのかを解明することにある。
【批評的課題】大テーマにおける『私』の再定義の3段階
本稿の大テーマ【『悪意の主体』から『倫理の主体』へ:規範と喪失の時代における『私』の再定義】は、以下の3段階で農園からの脱出劇を解析する。
- 『私』の否定(手段化): 子どもたちが最高の脳生産のため数値化され、システムのためのモノ/商品として存在していた状態。自由意志の否定。
- 『私』の創発(集合的主体): 「集合的知性」と実践(プラクティス)を通じて、システムに抗う自律的な倫理を打ち立てた瞬間。新しい『私』の再獲得。
- 『私』の責任(内在的規範): 自由獲得後、外部の規範なき世界で、自ら「自由の規範」を作り続けるという、重い責任を負った倫理的主体としての『私』の確立。
1. 最適化の論理:愛情の機能化とシステムの構造
グレイス=フィールドハウスという「農園」の構造は、「弱者搾取」という従来の解釈に留まらず、「最高効率と功利性を至上とする最適化の論理」の極点として機能している。子どもたちに提供される良質な食事、高度な知育と、身体能力の最適化に資する運動、そしてママから与えられる「愛情」は、子どもを「モノ/商品」としての価値を最大限に高めるための徹底した品質管理プロセスであり、人間的な愛ではない。
1.1. 愛情という名の「心理的統制」
この「愛の機能化」は、外部からの侵略ではなく、内部からの「情報の統制」によって完遂される。ママの愛情は、子どもたちに「ここは安全である」「愛されている」という認識を植え付けることで、システムに対する抵抗の意思を根源から解体する役割を担っている。特に、入眠時の子守唄や日常的な身体接触は、行動経済学的な操作として機能しており、子どもたちの自己肯定感を高めると同時に、彼らが自発的に「最高の脳」を育成するための内面化された統制を促している。この構造は、現代哲学における規律権力(フーコー)が身体と知性を訓練し、システム維持のために人間を配置する論理と深く通底している2。また、農園の子どもたちは、生命がいつ収穫されるかという「死の不確実性」に晒されている点で、政治哲学におけるアガンベンの「ホモ・サケル(剥き出しの生)」の概念を具現化していると言える。彼らは規範や権利から切り離され、純粋な生存の可能性のみに還元されている。
1.2. デジタル・ガバナンスとの共振と現代的切実さ
このシステムの恐ろしさは、その論理が現代社会におけるデジタル・ガバナンスや最適化された快適性の構造と驚くほど共振する点にある。例えば、デジタル・プラットフォームがユーザーの嗜好に合わせて情報を過度に調整することで形成するフィルターバブルは、農園が子どもたちを真実から隔離する「情報の監獄」の現代的な具現化である。さらに、企業がKPI(重要業績評価指標)やビッグデータ分析を用いて従業員の行動を評価・管理し、効率性に基づいて価値を算定する仕組みは、子どもの生命価値を厳密に数値化し、最高級の商品として出荷する農園のプロセスと構造的に同一である。特に、ギグワーカーに対するアルゴリズム的な評価システムや、SNS上でのエンゲージメント率の操作は、人間的な労働や交流までもが数値化され、効率性に基づいて手段化される現代の徴候を映し出している3。
1.3. 人間の仲介者による責任の曖昧化
また、農園の支配構造が、純粋なAIや抽象的なアルゴリズムではなく、人間的な仲介者(ママ、鬼の支配層)を通じて機能している事実は重要である。ママ(イザベラ)は、自らの立場と生存のためにシステムを積極的に維持する人間であり、この構造は、現代における「責任の分散と曖昧化」を象徴している。システムが人間という「顔」を持つことで、抵抗の対象は鬼という外部の存在だけでなく、内側に存在するシステムへの追従者にも向けられる。これは、システムがその暴力性を抽象化するのではなく、むしろ人間性を利用することで、抵抗の意思をさらに複雑な倫理的葛藤へと誘導する、高度な統制戦略である。
2. 集合知の創発:戦略と実践による主体性の確立
システムへの対抗策は、エマ、ノーマン、レイによる集合的知性の結集に集約される。この知性戦の過程で、イザベラが子どもたちへ向ける「諦め」の説得は、単なる懐柔ではない。それは、構造の究極的暴力に直面する代わりに、その抑圧的なシステムが「子どもたちの幸福のために存在している」という幻想(ファンタジー)を内面化させる、イデオロギー的な構造的暴力の言語化である。この言説は、「システムが善意であるという幻想」を剥奪されることへの恐れを利用し、「現状を受け入れ、システムの管理者(ママ候補)としての生存権を取り引きすると楽になれる」という、シニカルな理由による構造への屈服を促す4。
2.1. 「プラクティス」が創るシステム外の知性
特に、イザベラがエマに対して「ママ候補」という形で生存の道を示唆する行為は、女性の身体(生殖機能)と母性という機能を、システムの再生産のための道具として組み込むことを要求する、極めて構造的な暴力である。これは、「主体性の完全な放棄と引き換えの生存権の付与」を迫る精神的な脅迫(強要的)として機能し、最適化の論理が、生殖の領域、すなわち生命の根源的な連鎖までも支配下に置いていることを示している。
しかし、子どもたちはこの構造的諦めに屈せず、戦略(知性)と、鬼ごっこなどを経て得た実践(プラクティス)を通じて、自らの主体性を回復させる。「鬼ごっこ」という行為は、単なる体力訓練ではなく、「システム外の知性を創発する場」として機能していた。彼らは、鬼ごっこを通じて、他者の視点(鬼の視線)を奪う訓練、境界線を侵犯する訓練、そして地形を把握する訓練を行うことで、農園という「閉じたシステム」の外部性を、身体と知性を通して内在化するプロセスを経た。この実践こそが、システムを欺くための戦略的思考の基盤となった。
2.2. 功利主義と義務論の戦略的統合
逃走計画において、レイがリアリスティックな応答として検討された「年少者の切り捨て」や「少人数での脱出」という功利主義的な選択は、効率性を最優先するシステムに対抗するための論理であった。レイは、自らの存在を犠牲にしてでも、主要な二人の脱出を確実にすることを主張し、功利主義の担い手として行動した。彼の自爆を試みる行動は、「最大多数の幸福」のため、自己を手段化するという功利主義の極端な実践であった。
しかし、ノーマンはその功利的な帰結を最終的に採用せず、エマの「全員救出」という義務論的理想の実現に向け、その卓越した知性を駆動させた。ノーマンの選択は、単なる感情論ではなく、カント的な「人間の尊厳」を絶対視し、結果のために誰かを手段として切り捨てる倫理的破綻を拒否する、戦略的な義務論の実装であった。彼は、自らの偽装出荷や緻密な情報操作の計画を通じて、「価値の切り捨て」を回避しつつ、全員を救うという、倫理的な理想を現実的な戦略として成立させる知性の極点を示した。
このエマ、ノーマン、レイの間で展開された多層的な倫理的判断は、現代の大規模システムが直面する技術的・倫理的トレードオフの縮図である5。『約束のネバーランド』の倫理的強度は、この対立を集団知によって統合し、「いかにして両立させるか」という新たな倫理的課題として引き受けた点にある。
2.3. 倫理的統合のドラマと決断の瞬間
この倫理的統合のドラマは、レイが自らの自爆計画をエマに打ち明け、エマがそれを食い止めるために奔走するクライマックスの瞬間に象徴的に表出する。この絶望的な対立を経て、エマはレイの功利的な献身を受け止めつつも、彼の命を決して手段化させないという「絆を基盤とする倫理的義務」を再確認する。この瞬間、彼らの抵抗は単なる「逃走戦略」から、「集団の尊厳と愛の倫理」を賭けた存在証明へと変貌を遂げたと言える。
3. 自由の代償:集合知の脆さと「内在的規範の責任」
農園からの脱出は、物理的な自由の獲得を意味するが、同時に彼らを支えていたシステムの「裏側の規範」が崩壊したことによる倫理的な「喪失」をも意味する。ここでは、システムの外側に創発した「集合的知性」が抱える内的な脆さを分析し、その自由の代償として、彼らが担うことになった「内在的規範の責任」の重さを考察する。
3.1. 集合知の脆さ:集団浅慮と個への依存
「集団知」による戦略的な勝利は、同時にその脆弱性をも内包する。一つは、集団内の結束性を優先するあまり、批判的な思考を放棄する「集団浅慮(グループシンク)」の危険性である。エマの倫理的に「正しい」理想が、一時的に生存確率を低下させる「非合理的な」選択である可能性について、他のメンバーが強く反論できなくなる状況は、この集団浅慮の兆候である。子どもたちがエマの理想に盲目的に従おうとする瞬間は、集団的な同調圧力が、個別具体的な生存確率の冷静な分析を凌駕する危険性を示唆している6。また、ノーマンという最も合理的な知性がシステムによって排除された後の戦略的停滞は、集団知が特定の強力な個に依存していたという構造的脆弱性を示唆している。
3.2. 倫理的テーマの変奏と普遍化
作品の多角的なメディア展開は、この倫理的深淵とサスペンス要素を大衆に浸透させたが、同時に倫理の解釈を変奏させた。マンガ版(原作)は、緻密な情報量により、哲学的な深淵とシステムの構造解析という硬質な批評軸を提示し、読者に「知的な分析」の余白を与えた。一方、アニメ版は、視覚的な緊迫感と感情的な没入を優先し、功利主義的判断の倫理的重みを簡略化する側面を否めず、結果として「絆」という情緒的な側面を強調し、大衆的な共感を獲得した。実写映画版では、主人公の年齢を引き上げることで、その判断を「子どもの純粋さ」から「16歳という、自律的な倫理判断を担う年齢」の決断へと変化させ、「システムへの反逆」というテーマをより社会的なものとして機能させた。これらの変奏は、原作が提示した「情報統制下の集団的倫理の責任」というテーマを、普遍的なものとして再定義する役割を果たしたと言える。
3.3. 喪失と対話:内在的規範の確立
主人公たちが最終的に手に入れた「自由」は、同時に「規範なき世界」という喪失をもたらした。特に、エマが貫いた義務論的理想の実現は、その後の過酷な生存競争における「自由の規範を自ら作る」という重すぎる内在的規範の責任を、集団全体に負わせた。この内在的規範の責任とは、外部のルールが存在しない世界において、鬼という異種との共存の可能性や、新たな社会秩序の構築を、自らの倫理的な行動原理に基づいて決定し続けることである。システムとの戦いを経て、倫理的主体として立ち上がった彼らの課題は、ここから自己の内に深く沈潜し、喪失と対話を通じて、規範なき時代の愛と生の意味を再構築することにある。
結論
『約束のネバーランド』は、「システムの欺瞞と、それに伴う機会の剥奪」が究極の形で具現化された物語であり、絶望的な状況下で集合的知性が発動した「倫理的責任の集合体」の記録である。この内在的規範の責任は、外部のルールが存在しない世界において、集団が自らの倫理的な行動原理に基づいて新たな社会秩序を決定し続けるという、重い課題を課す。この内省的な葛藤は、次なる論考で、私たちが静かに寄り添うべき個人的な物語へと収斂していく。
- 前回記事「『GO』:規範なき時代の倫理と「自己決定によるアイデンティティの脱構築」」の内容を簡潔に紹介し、本稿への論理的な接続を確立する。↩
- 現代哲学におけるフーコーの規律権力(Disciplinary Power)概念は、人間がシステムの目的のために訓練・配置される「手段化」の論理、すなわち農園の徹底した身体と知性の管理体制の概念的な基盤をなしている。↩
- 現代のデジタル・ガバナンスは、アルゴリズムによる情報統制や数値化された評価システムを通じて、人間の行動・感情・価値を効率性に基づいて手段化する構造を持つ。これは、農園における生命の数値化と情報の隔離という構造と驚くほど共振している。「フィルターバブル」(イーライ・パリサーによる概念)は、アルゴリズムがユーザーの行動に基づき情報を選別することで、異なる視点や真実から隔離される状態を指すが、農園の「情報の監獄」はまさにこの極限的な形態であり、情報の選別が「自由の剥奪」ではなく「快適性の提供」として機能する点で、現代のデジタル環境と構造的に一致する。KPIやギグワーカーの評価システムは、その具体的な具現化である。↩
- 哲学者スラヴォイ・ジジェクは、現代のイデオロギーが「信じていないが、信じているかのように振る舞う」というシニカルな構造を持つと分析し、システムが善意であるという幻想(ファンタジー)が、諦めと屈服を正当化するメカニズムを指摘している。↩
- 自動運転車における「トロッコ問題」や、医療における資源配分決定システムなど、テクノロジーが倫理的な判断を代理する場面が増加している。エマとノーマンの葛藤は、技術的判断が生命の価値をいかに扱うべきかという、現代における最も重要な問いかけを代行している。↩
- 集団知は、多様な視点が相互に牽制し合うことで初めて機能する。特定の意見への同調圧力が生じた瞬間、あるいは影響力の強い個人が失われた瞬間、その自己修正機能は停止し、集団全体が危機に瀕する。↩

