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『万引き家族』:機能的倫理と「血縁を超えたケアの再構築」

映画生存と生命の倫理2020年代

現代社会の構造的孤独とケアの不在が進行するなか、是枝裕和の『万引き家族』は、血縁の規範から逸脱し、生活の維持という切実な目的によって駆動する集団を描き出す。本論考は、この作品を、現代の「過剰な自己責任」を強いる時代に対する、機能的な倫理(Functional Ethics)の必要性を痛切に示唆するものと捉える。従来の規範的倫理が機能不全に陥った社会において、家族の境界線を溶解させ、自己を超えたコミュニティの再構築へ向かう現代人の試行錯誤を、この「機能的倫理」が象徴すると断定する。

【倫理なき都市に、機能が灯るとき】
作品データ
タイトル:万引き家族
公開:2018年6月8日
監督・脚本・編集・原案:是枝裕和
主要スタッフ:近藤龍人(撮影)、細野晴臣(音楽)、松崎亜希子(編集)
制作:フジテレビジョン、AOI Pro.、ギャガ

序論:血縁が機能しない時代、新しい家族の「生き方」

本論考が分析対象とする是枝裕和(原案・監督・脚本・編集)による『万引き家族』(2018年)は、第71回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作であり、公開当時から現代日本の家族像と貧困を巡る議論を社会全体に巻き起こした。

この作品は、2020年代の構造的課題を象徴するため、本論考はこれを2020年代という時代精神から読み解くことを目的とする。2010年代に表面化した「自己責任論の過熱」と「構造的孤独」は、パンデミックを経て社会の分断が加速した2020年代において、その現実的な切実さを増している。したがって、この作品は、公開年を越えて、現代の倫理的探求を象徴する批評的な視座として再評価されるべきである。

彼らが血縁によらない擬似家族として形成し、窃盗という逸脱を共通項としながら生活を維持する姿は、資本主義と家族の境界線が溶解し、生の継続そのものが困難になりつつある現代社会のリアリティを鋭く抉り出している。この作品は、法的な規範や社会的な通念を超えて、「生きる」という目的のために機能する倫理とは何か、という根源的な問いを我々に投げかける。

[前回の論考]が示したように、私たち氷河期世代が直面した「失われた30年」の構造的困難は、規範的な「正しさ」や「努力」が、生の維持という機能的な成果に結びつかない現実を突きつけた。この構造的孤独への対処法としての機能的倫理の台頭こそが、『万引き家族』を2020年代の作品たらしめる核心である。この倫理は、規範的な「絶対的な善」よりも、「集団の維持」や「相互のケア」という機能的な成果を優先する、「状況依存型の倫理」である。

1. 私たちが孤独な理由:自己責任社会が奪った「ケア」の代償

理論的基盤として、 論考の理論的基盤を客観的なデータに基づき、社会学的な視点から明確にする。

1.1. ルーマン理論:家族を奪う社会の機能分化

現代社会の複雑性は、ニクラス・ルーマンが提唱するシステム理論(社会はそれぞれ独立したルールで動く機能の集合である、という考え方)が示すように、政治、経済、法、家族といった独立した「機能システム」への分化によって特徴づけられる1。このシステム分化こそが、あるシステムで「機能的」な行為が、別のシステムでは「規範的逸脱」となる乖離を生じさせる、彼らの行為の構造的な背景である。

1.2. 貧困と虐待:データが示す「ケアの破綻」

このシステム分化のなかで、新自由主義的資本主義が公的なケア・システムを解体した結果、家族は過剰な負荷を負うこととなった。本来、家族が担うべき情動的な機能(パーソンズの家族機能論2が重要視するもの)が、経済の浸食により「生存のための経済的な機能」に代替されている。この構造的困難の指標として、日本の相対的貧困率、特に子どもの貧困率(最新の統計でも高水準を維持)や、児童虐待の相談対応件数の著しい増加3は、公的な福祉や血縁家族が、生存維持という機能を十分に果たせていない現実を裏付けている。

2. なぜ万引き家族は「悪」なのか?世間の常識が下す冷たい判決

『万引き家族』への批判は、普遍的な規範的倫理に基づいている。この視点を客観的に捉え、自論への論戦の場を設ける。

2.1. 法の絶対性:社会契約論による犯罪の否定

法学者や保守的論者から提起される最も強い批判は、彼らの行為を「犯罪の美化」として捉える論理である。この論理は、社会契約論の根幹にある「普遍的な法規範の維持」に基づき、いかなる構造的な格差も窃盗を正当化しないと主張する4。この批判は、「法は絶対」であり、彼らの行動が規範的逸脱に過ぎないと断罪する。

2.2. 常識論の限界:生存のための行為は「悪」か

これらの批判は、彼らの行為を「法システム」の視点からのみ捉えている。しかし、この批判は、生存という機能が規範の維持よりも根源的な要求となる極限の状況を無視している。本論考は、彼らの行為が「生存という機能」において必要不可欠な手段であったことを、次に詳述する道具主義的倫理の視点から論理的に応答する。この応答こそが、機能的倫理の必要性を証明する鍵となる。

3. 家族の「機能」で悪事を正当化する:生存のための倫理

ここでは、 先に提起された規範的批判に対する理論的な反駁の核心として、機能的倫理の定義を深める。

3.1. デューイの道具主義:倫理の「手段」としての機能

機能的倫理を理解するために、ジョン・デューイが提唱した道具主義的倫理(Instrumentalism)(行為の価値をそれがもたらす有用性や問題解決機能に求める考え方)に焦点を当てる5。道具主義の視点に立てば、行為の価値は普遍的な善ではなく、「状況に応じた手段」として機能する。

『万引き家族』における万引き行為は、規範的には悪であるが、「飢餓の回避」という最も根源的な生存問題の解決という目的においては、「有用な機能」として作用した。治が祥太に教える万引きは、規範の教育ではなく、生存のための機能的な技術継承であり、彼らが生存という即物的な目的を優先せざるを得なかった状況を、道具主義的に正当化する。

3.2. 倫理の衝突:生存維持 vs. 規範の優位性

先に論じたルーマンのシステム理論に基づけば、信代によるゆり(りん)の「誘拐」は、法システムから見れば断罪されるべき逸脱である。しかし、家族システムおよび福祉システムが果たすべき「ケアの機能」が構造的に欠如した結果、その機能を違法な手段で代替せざるを得なかった行為である。彼らは、機能的にはケアを遂行したが、規範的には犯罪を犯した。この機能と規範の衝突点こそが、社会の機能不全を最も鋭く映し出す鏡である。

4. 最後の繋がり:機能が壊れた後に残った「情」の本当の意味

このセクションでは、 機能的倫理が持つ限界と、それが「情動的な倫理」へと転化するプロセスを分析する。

4.1. 機能の自己否定:システムとしての家族の崩壊

祥太の万引き拒否は、「機能的生存」よりも、「倫理的(規範的)生存」を選択しようとする、機能的倫理のシステム内崩壊であった。彼の行動は、集団の機能の維持よりも、個人に生じた内的な規範(良心、罪悪感)が優位に立ったことを意味し、物語が再構築へと向かう転換点である。

4.2. 「愛」の証明:血縁を超えたケアの機能

終盤、警察による信代への「情の有無」に関する尋問は、「血縁」という形式的規範と「行為としての情動」の対比を際立たせる6。信代が、法や血縁による「母」という役割を否定し、「ただ抱きしめた」という行為そのものが愛であったことを示すように、彼らは機能の遂行(窃盗、共同生活、ケアの代替)を通じて、血縁という規範を超えた「情動的共同体」を生成した。この共同体は、機能的結合が倫理的な情へと転化することで成立した、拡張された家族概念の萌芽である。

結論:血縁を超えた「生存の哲学」が示す、次世代への問い

『万引き家族』が提示した機能的倫理は、規範の機能不全と構造的孤独に対する、一つの生存戦略であったと総括できる。この集団は、血縁に基づかない「機能する共同体」の可能性として、2020年代以降の社会における「家族の再構築」のヒントを提供した。

しかし、彼らが辿り着いたのは、違法な手段でしか維持できない「機能」の限界でもあった。この限界は、現代の家族が直面するもう一つの構造的な問題に接続する。それは、「規範的な機能」が、内的な崩壊を隠蔽し続ける現象である。

かつての社会、特に高度経済成長を経て豊かさを享受した世帯は、血縁という形式的な枠組みと経済的な安定を維持しながらも、その内部では個々人の孤独とコミュニケーションの機能不全が静かに進行していた。彼らは、形式的な機能を維持するために、内的な真実を抑圧した。

次なる論考では、この形式的な機能に囚われた家族が、いかにして内的な孤独を深めていったのかを考察する。機能の追求が、形式の維持へと転化し、倫理の探求が内的な閉塞へと向かう、別の時代の家族の様相を分析することが、現代の機能的倫理の必要性をさらに明確にするであろう。

  1. N.ルーマン 著、馬場靖雄 他 訳『社会の社会』(法政大学出版局)を参照。機能分化の定義: 政治、経済、法といった社会の機能システムがそれぞれ独自のコード(ルール)に従って自律的に動くこと。これにより、一つのシステム(例:経済)で合理的な行為が、別のシステム(例:法)においては逸脱(万引き)として扱われる構造的乖離が生じる。
  2. T.パーソンズ、R.F.ベールズ 著、橋爪貞雄 他 訳『家族: 核家族と子どもの社会化』(黎明書房)を参照。家族の機能の経済ユニット化: 近代産業社会において家族が担う機能は、子どもの社会化と成人のパーソナリティの安定化に特化・縮小されるが、経済的な困窮により、家族が情動的なケアよりも「生存のための経済的機能」を最優先するユニットへと変質したことを示す。
  3. 厚生労働省「国民生活基礎調査」および児童相談所・警察庁の統計を参照。構造的ケアの不在: 日本の相対的貧困率、特に子どもの貧困率が高水準を維持している現状、および児童虐待の相談対応件数が著しく増加している客観的データ。公的な福祉システムや血縁家族が、本来果たすべき生存維持とケアの機能に限界をきたしている現実の裏付け。
  4. ジョン・ロック『統治二論』またはトマス・ホッブズ『リヴァイアサン』を参照。規範の絶対性と公共の安全: 個人の自然権を保護するため、財産権の尊重と公共の安全を維持する法規範は絶対的であり、いかなる個人的・構造的な困窮も、法的な逸脱行為(窃盗)を正当化しないという、保守的な批判の論理的基盤。
  5. J. デューイ 著、河村望 訳『デューイ=ミード著作集3 人間性と行為』(人間の科学社)を参照。道具主義的倫理: 行為の価値や倫理的判断を、普遍的な規範ではなく、その行為が具体的な問題(飢餓、生存の危機など)を解決する「手段」としてどれだけ有用であるかという機能的な成果によって評価する考え方。万引き行為を、生存維持という目的のための「有用な機能」として解釈する。
  6. 映画『万引き家族』公開当時の法学者や保守的論者による批判的論考を参照。情動的な共同体の形成: 映画終盤の信代に対する尋問シーンやその周辺描写。警察の尋問が、血縁という形式(法的な規範)に基づき愛の有無を問うのに対し、信代の態度が血縁を超えた「行為としての情動」が共同体を成立させたことを示し、形式と機能の倫理的対比を明確にする。

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