1995年、バブルの熱狂が潰え、社会が長い停滞(踊り場)へと足を踏み入れた時代。大手出版社の片隅で、活字への執着という「持て余した資質」を抱え、辞書編集という実務を通じて、ひっそりと自らの「生存の場所」を築き始めていく男がいた。馬締光也。彼が手に入れたのは、栄華を極める出版界の覇権ではなく、15年という気が遠くなるような時間をかけて言葉の海を渡る「舟」を編むという、静かなる職務だった。
2026年、すべてがAIによって最適化され、個人の意志が統計の海に霧散していく今だからこそ、私たちは直視しなければならない。映画版『舟を編む』が描き出したこの15年の「遅延」は、単なる情報の記録ではない。それは、閉ざされゆく時代の中で、誰一人として意味の淵から取り残さないために彼が選び取った、最も誠実で贅沢な「個人的勝利」の記録である。

序論:敗北の地平から、「無意味」という名の抵抗を開始する
本稿は、全5回にわたる連載企画【情動の領分と合理性への抵抗線:システムの最適化を拒絶する「絶対的な私性」の領土化】の第4回である。[前回の論考]では、タイムリープというSF的技術を個人的な感傷のために浪費する「技術の蕩尽」を論じた1。しかし、本稿で扱う『舟を編む』において、私たちはより残酷な問いに直面せねばならない。それは、「その蕩尽すらも、システムに回収されるのではないか?」という絶望的な問いである。
2026年、LLM(大規模言語モデル)は言葉を確率的なトークンとして処理し、あらゆる「意味」を交換可能な記号へと還元した。私たちは、システムが統計的に「もっともらしい言葉」を無限に吐き出し、翻訳も要約も瞬時に完了する環境に生きている。しかし、そこでは言葉の意味は確率的な計算結果にすぎず、文脈は常に流動的で、誰も「本当の意味」に責任を持たない。
こうした言葉の空洞化は、私たちの精神が立脚すべき「意味の地盤」を溶かし、情報がただ無秩序に漂うだけの「熱死」の状態へと向かわせる。この状況下で、15年をかけて一冊の辞書を編む行為は、効率性を至上命令とする最適化の信奉者たちから見れば、時代錯誤なアナログへの執着であり、現実を規定する巨大な情報インフラには指一本触れられない「外界から隔絶された独我論的な温室」での自己満足に過ぎないのかもしれない。
だが、あえて言おう。その「無力さ」こそが、この営みの核であると。 この茫漠とした情報の海に対し、自分たちの足場となる大地(テラ)を言葉によって築き直すこと。それが、本作における辞書編纂を、私が「意味のテラフォーミング」と呼ぶ理由である。それは単なる逃避ではない。AIが支配する平滑な時間軸に対し、人間固有の「持続」と「定義」によって、世界を物理的に居住可能な場所へと作り変えるクーデターなのだ。
もし人間の思考が、統計的な確率論に基づくニューロンの発火に過ぎないのなら、馬締光也(まじめ みつや)たちが示す「迷い」や「遅延」は、計算機としての性能不良(バグ)である。しかし、この「バグ(非効率)」を意図的に維持し、修正パッチ(効率化)を拒絶し続ける意志こそが、計算可能な未来に対する唯一の「ノイズ(抵抗)」となり得る。本稿は、彼らの営みを、単なる「組織の中の成功物語」としてではなく、効率化の波に抗いながら固有の時間を守り抜く、「美しく不敵なサボタージュ」として再定義する。システムが彼らの情熱すら商品化し、消費しようとするならば、私はシステムが決して消化し得ない「硬質で私的な実存」を、その喉奥にねじ込むまでだ。それは、加速し続ける世界に対する、最も誠実で贅沢な「個人的勝利」への宣言となるだろう。
1. 身体性とエラーの聖域:計算不可能な「私」の防衛線
この章では、デジタル化によって剥ぎ取られた言葉の「手触り」を奪還する試みを論じる。システムが最短距離の正解を提示する時代において、あえて「処理落ち」を選び、身体的な摩擦を愛でる行為がいかに政治的な抵抗となり得るかを明らかにする。
1.1. 計算機的必然としての「迷い」:エラーを聖別するネゲントロピー
「馬締の選択もまた脳内ニューロンの発火確率に過ぎない」という唯物論的な批判は正しい。人間もまた、生化学的なアルゴリズムに従う機械かもしれない。しかし、『舟を編む』が描くのは、そのアルゴリズムが「最適解」を出力することに失敗し、無限ループに陥る様(さま)である。15年という歳月は、情報工学的に言えば「処理落ち」であり、計算資源の無駄遣いだ。だが、この「処理落ち(フリーズ)」の時間こそが、人間が人間として存在できる唯一の聖域となる。
馬締が玄武書房に入社した1995年は、日本社会が長い停滞へと足を踏み入れた分水嶺であった。彼はいわゆる「氷河期世代」が直面する苛烈な拒絶を直前で免れた世代でありながら、その後の「失われた30年」を、社内の辺境である辞書編集部で過ごすことになる。だが、彼はそこでシステムの単なる歯車として摩耗することを選ばなかった。「言葉を精緻に捉えたい」という、時代遅れなほどのひたむきな情熱を羅針盤に、彼は組織という枠組みを借りながら、その資源を「言葉という共有地(コモンズ)」の再建へと静かに転用2していったのである。馬締と、彼を支えた優秀な協力者たちが15年をかけて成し遂げたのは、社会の門が閉ざされていく中で、なおも他者と繋がるための足場をどこまでも丁寧に、執拗に築き直すという、祈りにも似た「持続」であった。
現代の加速主義的な社会は、常に最短経路での「正解」を求める。これに対し、辞書編集部が行うのは、言葉と言葉の間にある無限のニュアンスという迷宮で、あえて立ち止まる行為だ。シュレーディンガーは生命を「負のエントロピー(ネゲントロピー)」と呼んだが、2026年の文脈において、それは「スムーズな情報の流れを堰き止める抵抗」として読み替えられるべきである3。
AIが瞬時に出力する定義は「流動的で正しい」。対して『大渡海』の定義は「固定的で遅い」。この遅さは、AIには決してシミュレートできない。なぜなら、AIにとって遅延は「性能低下」だが、人間にとって遅延は「熟考」という名の機能だからだ。馬締たちは、自らの脳という不完全なハードウェアが起こす「エラー(迷い)」を、修正すべき欠陥ではなく、保存すべき「魂の形式」として肯定する。彼らは、確率論的な必然性の中で、あえて確率の低い「非効率な分岐」を選び続ける。その無謀な賭けの連続のみが、統計的な「平均値」としての死から、言葉を救い出す。
1.2. フェティシズムという名の防波堤:回収不可能な「ヌメリ」
「紙の質感への執着はノスタルジーに過ぎない」という批判に対し、私はこう反論する。「そうだ、これはフェティシズムだ。だが、フェティシズムこそが、交換価値への還元を拒む最後の防壁である」と。
作中で執拗に描写される辞書用紙の「ヌメリ感」、指に吸い付くような触覚性は、デジタルデータとしてクラウドにアップロードすることが原理的に不可能である。ミシェル・セールが五感の復権を説いたように、意味(センス)は感覚(センス)に根差している4。この「ヌメリ」は、情報の流動性を阻害する物理的な摩擦係数として機能する。
システムは、あらゆる体験を「コンテンツ」として回収し、販売しようとする。しかし、馬締が深夜の編集室で感じる、古紙とインクと疲労が混ざった「現場の空気」や、紙をめくる時の指先の微細な快楽は、他者に伝達不可能な(ゆえに商品化不可能な)「クオリアの残余」である。この残余を、批判者は「翻訳誤差」と呼ぶかもしれない。だが、その誤差の中にしか、個別の生は宿らない。AIにとってのノイズ(除去すべき汚れ)を、彼らは「生活の手触り」として神聖視する。この倒錯したフェティシズムこそが、清潔な管理社会に対する、最も粘着質で厄介なサボタージュなのだ。
1.3. 理解不能な他者との「非対称な接続」:ブラックボックスの尊重
馬締と言葉、香具矢と料理。二人の関係性は、互いの専門領域(ブラックボックス)を完全には理解できないまま進行する。これは、すべてを言語化・可視化・共有化しようとする「透明性」の暴走に対するアンチテーゼである。
AI同士の通信は、プロトコルが一致すれば完全に同期できる。しかし、人間同士、あるいは人間と世界の関係は、常に「誤配」と「誤解」に満ちている。香具矢の料理の深淵を馬締は言語化できず、馬締の言葉への執着を香具矢は感覚的にしか捉えられない。この「わかりあえなさ」という断絶こそが、逆説的に二人の関係を豊かにしている。
2026年のシステムは、すべてのブラックボックスを開示させ、データとして統合しようとする。しかし、『舟を編む』が描くのは、互いに不可知な領域を持ったまま共存する「非対称な接続」の倫理だ。他者を完全に理解しようとしないこと、他者を「謎」のままにしておくこと。この「知的な怠慢」こそが、相手を予測可能なデータセットとして扱わないための、唯一の敬意の形式である。
2. 実存的テラフォーミング:情報の荒野に「庭」を築く
この章では、支配的な情報の再編(覇権的テラフォーミング)に対し、個人的な定義の積み上げによって「解放区」を構築する営みを考察する。それは巨大なシステムの中に、自分たちだけの論理が支配する「庭」を耕すゲリラ戦である。
2.1. 「ダサい」という名の致命的なエラー:統計的平均への反逆
西岡正志が書いた「ダサい」の用例は、彼の人生における一回性のイベントの結果であり、同時に彼の過去の経験(データセット)からの統計的帰結でもあるだろう。だが、重要なのはその起源ではなく、その記述が辞書という「公的な秩序」に刻み込んだ「私的な傷跡」としての機能である。
AIが生成する定義は、数億のウェブページから「偏り」を排除した平均値である。対して、西岡の用例は、彼個人の未練や諦念が色濃く反映された「偏りそのもの」だ。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を引き合いに出すまでもなく、言葉の意味はその使用(文脈)にある5。西岡の用例は、客観的な記述としては「不純物」だが、その不純さゆえに、読者の心の琴線(という名のバグ)に触れる。
システムはこの「感情的な記述」すらも「人間味のあるコンテンツ」として学習し、模倣するだろう。しかし、西岡がその言葉を書くに至った「痛み」まではシミュレートできない。模倣された「ダサい」と、実存的な痛みを伴う「ダサい」は、出力される文字列は同じでも、その背後にある「熱量(エネルギーコスト)」が違う。私は、このコストの非対称性に賭けるしかない。効率的な模倣ではなく、非効率な実体験によってしか到達できない「言葉の重み」を信じること。それは宗教的かもしれないが、その信仰なしに人間は記号の海を渡れない。
2.2. 独我論的ゲリラ戦:庭いじりによる「実存的テラフォーミング」
「辞書作りなど、巨大資本の片隅での庭いじりに過ぎない」という批判は、現状認識としては正しい。汎用的なアルゴリズムが支配する広大な荒野において、一冊の辞書は小さな箱庭に過ぎない。
だが、ここで私たちは「テラフォーミング」という概念を再解釈しなければならない。本来、この言葉が持つ「環境を塗り替える」という性質は、既存の文脈を無視して上書きする覇権主義的な支配(植民地化)と隣り合わせである。しかし、馬締たちが行っているのは、そうしたトップダウンの支配ではない。
彼らにとっての「庭いじり(Gardening)」こそが、全体主義的なインフラに対する最も有効なゲリラ戦なのである。それは自らの手で一語一語の定義という土壌を耕し、システムの画一的な重力圏から解放された「局所的な解放区」を築き上げること、いわば「足元からの実存的テラフォーミング」の萌芽に他ならない。
全体を塗り替えるテラフォーミングが、結局のところ新たな覇権(プラットフォーム)による権力の置き換えに過ぎないのに対し、馬締たちが行うのは、システムの中に、システムとは異なる法則が支配する「例外領域」を作り出すことだ。松本教授の独我論的な「右」の定義や、馬締たちのマニアックな用例採集は、普遍的なアルゴリズムが通用しないバリケードを築く行為である。
永井均が論じる「〈私〉」の特権性は、客観的な世界記述に穴を穿つ6。彼らは世界を変えようとしているのではない。世界が彼らを「変えようとする圧力」に対して、自分たちの定義という名の「箱庭」を守り抜こうとしているのだ。この解放区の中では、効率よりも敬意が、速度よりも深度が優先される。それは、世界の終わりまで続く「精神の籠城戦」であり、言葉による静かなる開拓(サボタージュ)なのである。
2.3. ブリコラージュとしての用例採集:アルゴリズム外の「遭遇」
馬締の用例採集は、レヴィ=ストロースの言う「ブリコラージュ(器用仕事)」の実践である7。彼は、目的を持って検索するのではなく、街を徘徊し、偶然耳に入ってくる他人の会話(ノイズ)を拾い集める。
2026年の私たちは、アルゴリズムによって「自分が欲しがりそうな情報」だけに囲まれるフィルターバブルの中にいる。そこには「予期せぬ遭遇」はない。しかし、馬締の「昆虫採集」的な手法は、無関係な文脈、理解不能なスラング、不快なノイズを、無差別に辞書という体系へ招き入れる。これは、最適化された情報空間に対する「不純物の密輸」である。
彼が集める言葉たちは、検索エンジンのSEO対策によって研磨された言葉ではない。生身の人間が、生活の摩擦の中で吐き出した、いびつで、汚れていて、しかし生きている言葉だ。これらの言葉を辞書に収録することは、システムのデータベースを「汚染」することと同義である。その汚れこそが、システムの完全な支配を妨げるウイルスとなる。
3. 祝祭とコモンズ:効率性を超えた「聖なる無駄」
最後の章では、この膨大な徒労がいかなる宇宙観(神話)を生み出し、消費社会の外部へと突き抜けるかを考察する。完成することのない「負の遺産」としての辞書が、いかにして未来の人類への最大の贈与となるのかを説く。
3.1. 宇宙技芸としての『大渡海』:役に立たない「神話」の構築
ユク・ホイが提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」は、技術を普遍的な効率性から解放し、固有の宇宙観と再統合する試みである8。批判者は言う。「それは精神的勝利宣言に過ぎない」と。然り。しかし、物質的に敗北した世界において、精神的な勝利以外に何が残されているというのか?
『大渡海』というタイトル自体が、言葉を「海」に見立てるという、非科学的なメタファー(神話)の上に成り立っている。この神話は、情報の高速処理や統計的な最適化には何の寄与もしない。だが、この「役に立たなさ」こそが、道具化(Instrumentalization)への抵抗である。彼らは辞書を作ることで、単なる「検索ツール」を作っているのではない。言葉という霊的な存在を祀る「社(やしろ)」を建立しているのだ。
技術を「魔術」や「祈り」として再定義すること。それは合理主義者から見れば退行だが、システムに魂を奪われないための防衛術としては、極めて高度な生存戦略である。彼らは2026年の東京の真ん中に、資本主義の論理では説明のつかない「聖なる無駄」を出現させた。その存在自体が、効率一辺倒の世界に対する、静かだが強烈な異議申し立てとなっている。
3.2. 祝祭としてのデスマーチ:生産性なき「蕩尽」の輝き
物語終盤の不眠不休の編集作業は、労働基準法に抵触する「ブラック労働」そのものである。批判者はこれを「やりがい搾取」と断じるだろう。しかし、ジョルジュ・バタイユの「蕩尽」の概念を借りれば、この過剰なエネルギーの浪費こそが、生の高揚(至高性)をもたらす祝祭である9。
彼らは、誰かに強制されて働いているのではない。自らの内なる衝動、すなわち「言葉への狂気」に突き動かされ、自らの生命力を燃料として燃やし尽くしている。この生産性のない、経済的合理性を欠いた「熱狂的な徒労」は、システムが管理する「持続可能な労働力再生産」のサイクルを逸脱している。
彼らの疲労、充血した目、膨大な用例採集カードの束。それらはシステムへの貢献ではなく、システムに対する「生命の浪費」という挑発である。「私たちは、あなたたちのために効率よく働く機械ではない。私たちは、自らの選んだ無意味な目的のために、勝手に壊れる権利を持っている」。そのデスマーチは、管理社会に対する、命を賭したストライキの一形態なのだ。
3.3. コモンズとしての言葉:永遠に完成しない「負の遺産」
最終的に『舟を編む』が到達するのは、辞書という「終わりのない公共事業(サグラダ・ファミリア)」である。言葉は生き物であり、常に変化し、増殖し、死滅する。したがって、辞書が完成することは永遠にない。
これは、完成品をパッケージ化して売り切りたい資本主義にとっては悪夢のようなプロジェクト(負の遺産)である。しかし、馬締たちはその「終わらなさ」を引き受ける。彼らは言葉を私有せず、消費せず、ただケアし続ける。この「ケア(維持管理)」の精神は、常にイノベーションとスクラップ・アンド・ビルドを繰り返す現代社会への批判となっている。
「システムへの回収」という批判に対し、私はこう答えよう。「回収できるものならしてみろ」と。15年という歳月の重み、数万回の修正、無数の議論、およびそれらに費やされた彼らの人生そのもの。これらは、いかなるAIも学習データとして吸い上げることはできず、いかなる企業もコストパフォーマンスに見合う商品としてパッケージ化できない。彼らが作り上げたのは、商品としての辞書ではなく、資本主義の胃袋でも消化しきれないほどに高密度で、硬質で、巨大な「時間の塊」である。
結論:シシュフォスの幸福な徒労
『舟を編む』の物語は、情報の海を支配する巨大なシステムに対する、敗北を運命づけられた抵抗の記録である。情報の再編を司るアルゴリズムは今後も世界を覆い尽くし、AIは言葉を自動生成し続けるだろう。馬締たちの辞書は、その奔流の中の小石に過ぎない。
だが、アルベール・カミュが『シーシュポスの神話』で描いたように、岩が再び転がり落ちることを知りながら、それでも岩を押し上げるその瞬間にこそ、人間の尊厳は宿る10。彼らの営みは、実効性を欠いた「庭いじり」であり、システムに餌を与える「家畜の反乱」かもしれない。しかし、その「無意味な反復」を自らの意志で選び取ることによってのみ、私たちはシステムの一部品であることをやめ、自律した「編集者」として生きることができる。
情報の海に沈むことを恐れるな。むしろ、その深淵に自ら潜り、肺に水を満たしながら、それでもなお「言葉」という泡を吐き出し続けること。その泡の一つ一つが、やがて来るべき新たな世界への、頼りなくも確かな道標となるだろう。敗北せよ、および再び編み直せ。その徒労の果てにしか、見えない景色がある。
- 前回記事「『時をかける少女』:情動制疾走と「身体的ハッキング」による決定論の破砕」を参照。↩
- Guy Debord, La Société du Spectacle, Buchet-Chastel, 1967. 日本語訳:ギ・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳、ちくま学芸文庫、2003年)。既存の要素を本来の文脈から引き剥がし、別の急進的な意味を付与するために再構成する手法。ここでは、利益追求という組織論理を、馬締の無自覚かつ徹底した誠実さによって、無償の知の集積という全く異なる文脈へと引き込み、組み替えていく営みを指す。↩
- Erwin Schrödinger, What is Life?, Cambridge University Press, 1944. 日本語訳:エルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か』(岡小天、鎮目恭夫訳、岩波文庫、2008年)。生命とは物理法則(エントロピー増大)に逆らって秩序を形成する「不自然な」存在である。↩
- Michel Serres, Les cinq sens, Grasset, 1985. 日本語訳:ミシェル・セール『五感:混合体の哲学』(米山親能訳、法政大学出版局、1991年)。情報は記号化されることで流通するが、感覚は身体に留まり、流通を拒む。↩
- Ludwig Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen, Blackwell, 1953. 日本語訳:ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(丘沢静也訳、岩波書店、2013年/鬼界彰夫訳、講談社、2020年)。言語は規則ではなく、生活形式の中での実践によって意味を持つ。↩
- 永井均『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房、1986年)。世界には還元不可能な「私」という視座があることの哲学的な意味。↩
- Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage, Plon, 1962. 日本語訳:クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房、1976年)。あり合わせの材料で構造を作る思考法。計画的なエンジニアリングと対置される。↩
- Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Urbanomic, 2016. 日本語訳:ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(伊勢康平訳、ゲンロン、2022年)。技術の多様性を回復するための哲学的枠組み。↩
- Georges Bataille, La Part maudite, Les Éditions de Minuit, 1949. 日本語訳:ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分──全般経済学試論・蕩尽』(酒井健訳、ちくま学芸文庫、1996年/新装版、2018年)/『呪われた部分 有用性の限界──草稿・ノート 1941-1949』(中山元訳、ちくま学芸文庫、2003年)。生産や蓄積ではなく、過剰なエネルギーを無益に消費することに生の極致を見る思想。↩
- Albert Camus, Le mythe de Sisyphe, Gallimard, 1942. 日本語訳:アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹訳、新潮文庫、2006年改版)。不条理な運命に対する反抗として、無意味な苦役を直視し、それを「自分のもの」として引き受ける態度の重要性を説いた。↩

