目的地へ到達することだけが唯一の正解とされる2026年の都市において、私たちは「途上の時間」という主権をアルゴリズムに明け渡してはいないか。スマートフォンのナビゲーションが提示する最短ルート、到着予定時刻の1分刻みの管理、そして無駄を排した最短のタイパ(タイムパフォーマンス)。移動は空間的な厚みを喪失し、A地点からB地点への瞬時的な「転送」のメタファーへと限りなく近づいている。そのプロセスにおいて、移動する主体であるはずの私たちの肉体は、情報のノイズとして背景へ退けられ、あるいは単なる貨物として運搬されることを待つだけの受動的なオブジェクトへと劣化している。
だが、今から30年前、1996年の日本の路上には、そうした「目的地への隷属」を物理的な摩擦熱で焼き切ろうとした男たちがいた。SABU監督の処女作『弾丸ランナー』が描き出すのは、ジョセフ・キャンベルが説くような英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)でもなければ、カタルシスを伴うハリウッド的逃走劇でもない。それは、社会的な役割を剥ぎ取られた三人の男たちが、ただ「加速すること」そのものに存在を賭ける、剥き出しの「放電」の記録である。ここに映っているのは、物語ではない。都市という回路がショートし、火花を散らす物理現象そのものである。

序論:回路の再起動と目的地を焼き切る生存知性
本稿は、全5回にわたる連載企画【技術の野生化と原質の再起動:管理の予測を突き抜ける「生存知性」の回路設計】の第2回である。[前回の論考]では、食という生存の基礎を「過剰な作法」へと転用することで、日常の中に埋没した原質を抽出するプロセスを分析した1。続く第2回となる本稿では、その抽出された原質を、都市という巨大なプリント基板の上で物理的な「加速」へと相転移させ、管理の網の目を焼き切るためのプロセスを検証する。
なぜ、この「ただ走るだけ」の、物語的な深みすら拒絶するかのような疾走劇を、回路設計の第2段階に据えるのか。それは、本作が示す「全力疾走」が、2026年のAI社会が最も苦手とする「目的を喪失した能動性」を体現しているからだ。AIは「どこへ行くか(目的地)」は予測できても、「どこまでも走る(純粋運動)」という、コスト度外視の熱量をシミュレートすることはできない。高度に最適化された都市OSにとって、目的を持たないエネルギーの消費は「エラー」であり「バグ」である。しかし、生命にとっては、この過剰な浪費こそが生存の証(あかし)となる。
現代の加速主義的な言説において、速度はしばしば資本主義の回転速度と同義として批判される。しかし、本作の速度は資本の蓄積には寄与しない。それはむしろ、蓄積された意味を剥ぎ取り、純粋な消耗へと向かう逆噴射である。本作の回路図は、私たちの肉体が単なる情報資源へと還元されることを拒むための、最小にして最強の防御壁となる。目的地を焼き切り、意味を置き去りにする「速度」という名の生存知性。その回路がいかにして実装され、最終的にシステムの管理領域である「死」すらも無効化するに至るのか。そのプロセスをここに記述していく。
1. 原質の暴発:AIの予測を突破する因果律のデッドエンド
本章では、社会的な「役割(コード)」が完全に機能不全に陥った三人の男たちが、いかにして管理社会の因果律から逸脱し、剥き出しの原質(Primal Matter)を露出させるに至るかを分析する。2026年の最適化社会において「どん詰まり」と定義される状況を、回路を再起動させるための「点火」として捉え直し、意味の向こう側へと突き抜ける加速の準備段階を記述する。
1.1. 社会的コードの破綻
1996年の都市を走る三人の男たちは、いずれも「社会的な死」の淵に立たされている。安田新吉(田口トモロヲ)は、銀行員でもなければ強盗のプロでもない。職場の理不尽なストレスと失恋が重なり、人生のデッドヒートに敗れた末、あまりに稚拙で無計画な銀行強盗を企てた「ただの男」に過ぎない。彼がモデルガン(模造銃)を手にコンビニへ立ち寄ったのは、犯罪の序章ではなく、詰みきった日常の断末魔であった。その姿は、高度経済成長の残滓にしがみつきながらも、バブル崩壊後の空虚に耐えかねた当時の日本人の肖像であると同時に、現代における「代替可能な労働力」としての絶望とも共振する。安田の表情に張り付いているのは、野心ではなく、行き場のない疲労と、自己の存在証明がどこにもないという乾いた諦念である。
一方で、コンビニ店員の相沢健二(ダイヤモンド☆ユカイ)は、ミュージシャンという高次の自己実現を夢想しながら、現実にはシャブの極彩色に脳を委ね、レジという社会の末端でかろうじて繋ぎ止められている。彼の神経系は、すでに資本主義的な労働のリズムから逸脱し、化学物質による人工的なテンポで駆動している。そしてヤクザの武田一男(堤真一)は、組長という自らの生存を定義する「象徴的な父」を護れなかった不覚に、ヤクザとしてのアイデンティティを完全に喪失し、組織という回路から絶縁されている。
彼らを突き動かしているのは、ポジティブな再起の物語ではない。むしろ、社会的な役割(コード)が完全に破綻した「どん詰まり」の閉塞感だ。ジル・ドゥルーズの説く「コード化」2とは、人間を「労働者」「店員」「ヤクザ」といった記号に封じ込めるプロセスだが、本作の男たちは、その記号がもはや自身の肉体を支えきれなくなった臨界点に達している。彼らの皮膚の内側では、コード化できない「何か」が、高圧蒸気のように膨張し、出口を求めて軋みを上げている。
これに対し、「彼らは単なる社会不適合者であり、その暴走は個人の資質の問題に過ぎない」という反論が想定されよう。AIによるスコアリング社会において、彼らはバグとして処理されるべき存在かもしれない。しかし、ユク・ホイが提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」3の視点に立てば、この「不適合」こそが、単一化された技術システムに対する抵抗の拠点となる。彼らの身体的ノイズは、システムが排除しようとする「偶然性」や「過剰さ」の貯蔵庫であり、そこからしか新しい回路は生まれない。
2026年の最適化アルゴリズムであれば、これらの「詰んだ」エラー値は、予測可能なリスクとして隔離されるか、効率的に排除されるだろう。しかし、本作においてはこの「デッドエンド」こそが、システムによる意味の被膜を内側から食い破り、飼い慣らされない生命の地力――すなわち「原質(Primal Matter)」を呼び覚ます高圧の点火プラグとなる。安田がコンビニで引き金を引いた瞬間、それは「犯人」や「被害者」といった法的なカテゴリーが起動する瞬間ではなく、彼らを社会的な因果律(ロジック)から物理的に弾き出す「放電」の始まりである。
1.2. 非線形な火花の点火
2026年の都市空間において、衝突やトラブルは「リスク管理」という名の巨大な演算装置によって、発生以前に無力化されるべきノイズである。しかし、『弾丸ランナー』の回路が真に起動するのは、安田がコンビニのレジ前で、意図せず指先に力を込めてしまったあの「偶然の発砲」というハプニングからだ。この一発の銃弾こそが、日常という名の線形な物語を粉砕し、非線形な暴走へと導く「火花」となる。
このプロセスは、クロード・レヴィ=ストロースが定義した「ブリコラージュ(器用仕事)」4の身体的実践に他ならない。安田は銀行強盗という「設計図(エンジニアリング)」を持って家を出たが、それはコンビニという日常の裂け目で呆気なく崩壊する。代わって立ち上がるのは、奪われた拳銃、シャブによる覚醒、失われたメンツといった、その場に転がっている不揃いな断片を繋ぎ合わせて「走り出す」という、即興的で非決定論的な生存知性である。計画された犯罪ではなく、偶発的な事故から始まる物語。それは、システムエンジニアリングに対する、ブリコラージュの反乱である。
このとき、追う者と追われる者の関係は、法的な「加害者と被害者」という対立軸を離脱する。シャブ中毒の相沢にとって、発砲した安田は「恐怖の対象」ではなく、自身の名曲を完成させるための「全能感のトリガー」へと変換される。彼の瞳孔は開き、現実の風景は極彩色のPVへと書き換えられる。そして、そこに乱入するヤクザの武田もまた、組織の論理(エンジニアリング)を失った空虚を埋めるために、目の前の「疾走」という純粋な現象に自らの回路を直結させる。
AI的な予測モデルは、ある事象から次の事象への「確率的妥当性」を計算するが、このコンビニの店頭で起きた三者の衝突には、論理的な必然性が欠落している。あるのは、衝突の衝撃によって回路がショートし、行き場を失った熱量が「前方への加速」へと変換される物理的な必然性だけだ。この非線形な火花こそが、社会的な外装(ペルソナ)を焼き切り、内側に眠る原質(Primal Matter)を剥き出しにする。ここで起動した回路は、もはや「解決」を目指さない。安田の銃弾は何かを撃ち抜くためではなく、ただ現状を維持していた静的な均衡を破壊するために放たれた。この火花によって、彼らは目的地(ゴール)へと向かうベクトルではなく、ただ因果律の外側へと突き抜けるための「速度」そのものへと変異するのである。
1.3. 理由を追い越す能動性
走り出した三人の背後で、「なぜ走っているのか」という初期衝動(理由)は、急速にその意味を失っていく。安田の銀行強盗の挫折も、相沢の怒りも、武田のメンツも、心拍数が180を超え、肺が焼けるような熱を帯びるにつれて、情報の解像度が追いつかないほどの「ノイズ」へと浄化されていく。物語的な因果関係は、物理的な負荷の前に霧散する。
アンリ・ベルクソンが説いた「生命の躍動(エラン・ヴィタール)」5は、まさにこの「理由の消失」の瞬間に立ち現れる。彼らの肉体は、社会的な動機という重力を振り切り、ただ地面を叩き、空気を切り裂くという「能動性そのものの質量」へと純化される。2026年の私たちは、常に「目的」を逆算して行動を規定されるが、本作の走者たちは、走るというプロセスそのものが「目的」を飲み込んでしまう瞬間を生きている。
ここには「無目的な行動はエネルギーの浪費であり、非合理的だ」という批判が存在し得る。しかし、ジョルジュ・バタイユが指摘するように、生命の本質は保存や蓄積ではなく、過剰なエネルギーの爆発的な消費にある。AIが最適化するのは「保存」のロジックだが、人間が真に生きている実感を得るのは、その最適化を逸脱する瞬間である。この「動機の蒸発」こそが、原質再起動の決定的なフェーズである。動機が蒸発した後に残るのは、空虚ではない。それは、システムによって名付けられる前の、剥き出しの原質(Primal Matter)だ。
安田の不格好なフォームも、相沢の恍惚とした疾走も、武田の殺気立ったストライドも、もはや誰かに見せるための演技(パフォーマンス)ではなく、ただ存在を維持するための「最小にして最大の抵抗」へと結晶化していく。彼らの顔からは社会的仮面が剥がれ落ち、獣のような、あるいは神のような、無垢な表情が浮かび上がる。理由を追い越した身体は、もはや管理の網にかかることはない。AIが「犯人の逃走経路」を算出している間に、彼らは「逃走すること自体」が目的と化した、因果律の向こう側の空白地帯へと突入している。この第1章の終わりにおいて、三人の男たちは、もはや社会的な属性を持たない純粋な「動体」へと変態を遂げたのである。
2. 生存知性の放電:タイパを粉砕する肉体的な摩擦熱
本章では、剥き出しになった原質が「速度」というインターフェースを介して、いかなる独自の論理(生存知性)を構築していくかを検証する。効率性を追求する現代の「スマートな移動」に対し、摩擦と疲労を伴う「持続」がいかにして管理社会の因果律を焼き切る「放電」となり得るか。身体の同期、性愛のリズム、時間の再領土化という三つの地層から、その回路の全容を露光させる。
2.1. 純粋持続による抵抗
2026年の都市生活は、あらゆるプロセスを「コスト」として最小化し、結果(目的地)へとショートカットする「中抜き」の技術によって支えられている。タイパ(タイムパフォーマンス)の極致において、移動時間は単なる空白であり、身体は目的地へ運ばれるための受動的な荷物に過ぎない。しかし、『弾丸ランナー』は、その「中抜き」されるはずの途上の時間を、映画の全編をもって占拠し、再領土化する。
アンリ・ベルクソンが説いた「純粋持続」6は、空間的な最短距離を測る計算からは決して導き出せない。安田、相沢、武田の三人が、肺を焼き、筋肉を悲鳴させながら走り続ける時間は、目的地に到達するための手段ではない。彼らの疾走は、1秒1秒を「次の瞬間のための予備動作」として浪費することを拒絶し、今この瞬間の苦痛と昂揚の中に全存在を繋ぎ止める。汗が流れ落ち、呼吸が荒くなり、視界が滲む。これら全ての身体的ノイズが、デジタル時計の均質な時間を拒絶し、固有の時間を刻み始める。
この執拗な持続は、効率化の極致にある現代社会に対する物理的な「バグ」である。SABUのカメラが捉える、終わりの見えない全力疾走のシークエンスは、観客に対しても「効率的なナラティブの消費」を許さない。物語が進まないことへの焦燥は、やがて「走ること」そのものへの没入へと変化する。身体が発する摩擦熱が、都市という冷徹な基板の上に「生存知性」の熱い回路を刻み込んでいく。このとき、時間は「消費されるリソース」から、自らの生の厚みを証明するための「放電の場」へと再起動されるのである。
2.2. 脱構築としてのエロス
本作において最も批評的な転換点は、中盤に挿入される三人の性的な妄想である。身体的な高揚感があるなか道ですれ違ったかがみ込む女性をみて、性的興奮を覚えた三人は三者三様に女性と性愛シーンを頭の中でくりひろげる。このシーンは単なるエロティシズムの提供ではなく、疾走という生存知性の回路を補強する多層的なマッピングとして機能する。
ここで注目すべきは、ベッドの上で刻まれるピストン運動のリズムと、アスファルトを叩くスニーカーのビートが、編集によって完全に同期(シンクロ)している点だ。ポール・ヴィリリオが説く「速度学」7の視座を借りれば、性愛も疾走も、身体がロゴス(意味)の統治を離れ、リズム(パトス)という自律的な駆動系へと切り替わる「脱構築のエロス」である。
安田のようなモテない男が、あのような濃厚な濡れ場を想起するのは不自然である、というリアリズムからの反論は無効である。なぜなら、ここで描かれているのは個人の記憶の再生ではなく、疾走によってリミッターが外れた脳内に混線した、人類共通の生物学的プロトコルの漏洩だからだ。極限まで加速した身体は、生殖(エロス)と破壊(タナトス)の区別を失い、ただ純粋な反復運動としての快楽へと雪崩れ込む。
2026年のAI社会は、快楽さえも「脳内報酬系の最適化」として管理・データ化しようとする。しかし、SABUが描く「喘ぎ」と「足音」の等価な並列化は、人間を「目的を遂行する端末」から、制御不能な周期運動を生きる「非線形な共振体」へと解体する。安田の脳内で性愛の記憶が疾走と結びつくとき、それは「過去の追憶」ではなく、現在進行形の加速をドライブさせるための燃料(生存知性)へと変換されている。思考が停止し、身体がリズムそのものと化したとき、個体としての境界は溶解し、原質はより高次の振動状態へと移行する。彼らは走ることで、システムに飼い慣らされる前の、「計算不可能な魂の固有振動」という、剥き出しの震えを取り戻しているのだ。
2.3. 散逸構造の自己組織化
当初、三人は「追う者」と「追われる者」という、法と暴力の因果律に縛られた敵対関係にあった。しかし、疾走が臨界点を超えたとき、彼らの関係性は全く異なる位相へと突入する。極限の疲労によって個体としての防御被膜が崩壊し、三人の走者は、一つの巨大な放電回路を形成する「群れとしての知性」へと変容する。
これはイリヤ・プリゴジンが定義した「散逸構造」8の映画的体現である。疲労というエントロピーが増大し続ける過酷な非平衡状態において、彼らは対話や合意を介さず、「速度」という一点において非線形な同期(フロー)を果たす。
安田、相沢、武田の三者が画面内で横一列に並んで疾走する執拗なトラッキングショット。そこにあるのは、社会的な階級や敵対心を蒸発させた後の、純粋な身体的共鳴である。彼らの呼吸は重なり合い、足音は一つの巨大な脈動となる。AIが「個別のエージェント」として彼らを分析している間に、彼らはすでに個体を超えた一つのエネルギー系へと自己組織化し、予測アルゴリズムの計算限界を突破している。この非線形な同期こそが、情報の最適化によって去勢された現代のコミュニケーションに対する、最も過激な生存知性の発露である。言葉はいらない。意味もいらない。彼らは「意味」を共有するのではなく、ただ「加速という現象」を共有することで、都市の回路を内側から焼き切っていくのである。
3. 結晶の奪還:死を無効化する蕩尽の先の相転移
本章では、疾走の果てに三人の男たちが到達した「終わり」の意味を検証する。彼らの加速は、社会的な成功や解決をもたらしはしない。しかし、すべてを燃やし尽くした後に残る「虚脱」こそが、システムによる回収を拒絶する純粋な結晶(Crystallization)となる。この無意味な熱量の爆発がいかにして「重力からの解放」の前提条件となるかを記述する。
3.1. 物質的実存の露光
安田、相沢、武田の全力疾走は、静止し、管理された都市空間を物理的な摩擦によって「再領土化」していくプロセスであった。ポール・ヴィリリオが説いた「速度学」9に基づけば、加速する肉体にとって、都市は「眺める風景」ではなく「衝突し、乗り越えるべき質量」へと変貌する。
彼らが駆け抜ける裏路地、工事現場、フェンス。それらは2026年の地図アプリが描く滑らかなベクトルデータではない。肺を焼く空気の冷たさや、足裏に伝わるアスファルトの拒絶反応として現れる、剥き出しの「地層」である。彼らは走ることで、都市のシステムが隠蔽していた物質的な実存を露光させた。錆びた鉄の匂い、泥水の感触、コンクリートの硬度。これらはバーチャルリアリティでは再現不可能な情報の密度を持っている。この「空間の奪還」こそが、原質が現実世界と接触した際に生じる最初の火花である。目的地へ最短で運ばれる受動性を捨て、自らの足のリズムで空間を切り刻むとき、都市は管理者のものではなく、疾走する者の「生存の場」へと塗り替えられる。
3.2. 聖なる浪費の儀式
物語の終盤、三人はヤクザの事務所という、本来ならば「死」や「社会的な破滅」を意味する袋小路へと突入する。しかし、そこで展開されるのは、悲劇的な玉砕ではなく、ジョルジュ・バタイユが論じた「蕩尽」10の極致である。
銃を乱射し、叫び、のたうち回る彼らの姿に、もはや銀行強盗の動機も、中毒者の妄想も、ヤクザのメンツも介在しない。そこにあるのは、これまでの疾走で蓄積された過剰なエネルギーを、何の結果(投資)にも繋げることなく、ただ「今、ここ」で使い切るという聖なる浪費である。この無秩序な乱痴気騒ぎは、計算された暴力よりも遥かに強烈な、生の肯定である。
合理主義的な観点からは、この結末は「無益な暴力」として片付けられるかもしれない。しかし、2026年の私たちは、あらゆる努力を「将来のキャリア」や「自己の最適化」へと投資することを強要される閉塞の中にいる。だからこそ、『弾丸ランナー』の男たちが、その投資の回路を物理的に切断したことにカタルシスを覚えるのだ。役に立たないことに命を投げ出すこの無謀な熱量こそが、人間がAIのシミュレーション(利益最大化モデル)を突き抜けるための唯一の武器となる。彼らはただ「燃え尽きる権利」を行使し、原質を純粋な灰へと昇華させたのである。
3.3. 解脱という結晶の生成
ヤクザの抗争に巻き込まれながらも生き延びた安田が、ガスが充満するなかライターに手をかけるラストシーン。ここで最も重要な批評的転回を行わなければならない。そこにあるのは、自暴自棄な死の選択ではなく、圧倒的な「虚脱」と、それゆえの「因果律からの解脱」である。
安田はヤクザの前で「走るのが気持ちよかった」と笑った。あの瞬間、彼はすでにシステム的な生存(損得勘定)の向こう側へ行っていた。ガス漏れの充満する部屋でライターを点火しようとする行為は、自殺願望ではない。それは「今この瞬間の全能感(原質の全開放)」が、死という最大のリスク(システムによる管理の最終手段)すらも無効化してしまったことの証明である。彼は死にに行ったのではない。ただ、あまりに純粋に「今」を生ききった結果、死という概念が彼を縛る重力を失ったのだ。
「明日」のために「今」を犠牲にする因果律こそが、管理社会の鎖である。しかし、安田はその鎖を焼き切った。ライターの火花は、未来という概念を消滅させ、永遠の「現在」を点灯させるための儀式である。この瞬間、彼はシステムによる管理(生への執着を通じた支配)が一切通用しなくなった「絶対的な現在者」へと変態を遂げた。それは社会的な属性をすべて喪失した果てに、自らの生命の使い道を完全に奪還した「至高の実存」である。この虚脱した身体、意味の蒸発を伴う空虚こそが、本連載が目指す「原質の再起動」の最終成果物である。
ここで原質は、観測不能な「魂」の領域へと回帰する。データとして補足できない、純粋なエネルギーの塊。この地を這うような虚脱と、魂の高潔な輝きの先に、次なる相転移が予感される。重力に抗い、アスファルトを叩き続けた肉体が、極限まで熱せられた末に到達する「無の境地」。この魂の重みが、次回において、物理的な重力そのものを無効化して飛翔する力となる。
結論:重力を超えるための孵化と魂の再起動
『弾丸ランナー』という回路を通過した私たちは、もはや「目的地への到着」を単なる成功とは呼ばない。目的地を焼き切り、途上の加速そのものに魂を直結させること。そして、すべてを蕩尽した後に訪れる清冽な虚脱を抱きしめること。これこそが、予測可能な未来という名の檻を突破する生存知性の真髄である。
本作は、地を走る者が空を飛ぶ者へと変態するための、過酷な「孵化」の儀式であった。安田たちが生成した「死をも恐れぬ魂の熱量」がなければ、次回の「ヒーロー」が重力を超えて飛翔する瞬間を、私たちは正しく目撃することはできないだろう。私たちの加速は、まだ止まらない。この摩擦熱を抱えたまま、回路は次なる高次へと接続される。
- 前回記事「『タンポポ』:生存知性と「原質のテラフォーミング」の回路設計」において、私たちは食という極めて内向的な生存機能を「過剰な作法」へと転用することで、管理社会の裂け目に実存を実装する「原質」の精製プロセスを分析した。そこでの「原質」は、一杯のスープという高密度な物質へと結晶化され、個の地力を内側から支える静かな聖域として機能していた。↩
- Gilles Deleuze et Félix Guattari, L’Anti-Œdipe, Les Éditions de Minuit, 1972. 日本語訳:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症』(上・下、宇野邦一訳、河出文庫、2006年)。欲望を社会的な枠組みや法に閉じ込め、一定の「意味」へと誘導するプロセス。↩
- Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Urbanomic, 2016. 日本語訳:ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(伊勢康平訳、ゲンロン、2022年)。技術を普遍的な単一のものではなく、地域の宇宙論や道徳と結びついた多様な在り方として再定義する概念。↩
- Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage, Plon, 1962. 日本語訳:クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房、1976年)。特定の設計図(エンジニアリング)に基づかず、その場にある限られた道具や偶然の材料を組み合わせて、新たな意味や機能を生成する知の在り方。↩
- Henri Bergson, L’Évolution créatrice, Félix Alcan, 1907. 日本語訳:アンリ・ベルクソン『創造的進化』(真方敬道訳、岩波文庫、1954年/改訂1979年)。他訳書に、同書(合田正人訳、ちくま学芸文庫、2010年)、同書(竹内信夫訳、白水社「新訳ベルクソン全集」、2013年)、同書(佐藤和広訳、Independently published、2023年)がある。生命が既知の物質的条件を超えて、予測不可能な方向へと自己を創造していく根源的な勢い。↩
- Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, Félix Alcan, 1889. 日本語訳:アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』(合田正人・平井浩訳、ちくま学芸文庫、2002年)、同書(竹内信夫訳、白水社「新訳ベルクソン全集」、2010年)、同書(佐藤和広訳、Independently published、2022年)。空間的に分割・計測可能な「時計の時間」に対し、意識の内側で流れる、分割不可能な生の質的な持続を指す。↩
- Paul Virilio, Vitesse et Politique, Éditions Galilée, 1977. 日本語訳:ポール・ヴィリリオ『速度と政治』(市田良彦訳、平凡社ライブラリー、2001年)。速度が社会、技術、そして人間の知覚を決定づけるとする論考。↩
- Ilya Prigogine and Isabelle Stengers, La Nouvelle Alliance: Métamorphose de la science, Gallimard, 1979. 日本語訳:イリヤ・プリゴジン、イザベル・スタンジェール『混沌からの秩序』(伏見康治ほか訳、みすず書房、1987年/新装版、2025年)。エネルギーや物質が絶えず流入・流出する「非平衡状態」において、エントロピーを外部に排出しながら、自己組織的に立ち上がる新たな動的秩序。↩
- Paul Virilio, Vitesse et Politique, Éditions Galilée, 1977. 日本語訳:ポール・ヴィリリオ『速度と政治』(市田良彦訳、平凡社ライブラリー、2001年)。速度が技術、そして都市の物理的構成をいかに変容させるかを論じた速度論の古典。↩
- Georges Bataille, La Part maudite, Les Éditions de Minuit, 1949. 日本語訳:ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分──全般経済学試論・蕩尽』(酒井健訳、ちくま学芸文庫、1996年/新装版、2018年)/『呪われた部分 有用性の限界──草稿・ノート 1941-1949』(中山元訳、ちくま学芸文庫、2003年)。生産や蓄積を目的とせず、ただ過剰なエネルギーを無目的に浪費・消費することの至高性を説く。↩

