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『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』:歴史の呪いと「原初的生」への回帰

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理アニメ精神と内面の構造マンガ2020年代

哭倉村で響き渡る非合理な「呪い」の木霊こそ、現代社会を覆うシステム崩壊後の「生存の倫理」を問う、もっとも過激で切実な問いかけである。2025年現在、直面している閉塞感の正体は、オカルト的な怪異ではなく、過去の経緯が現在の選択を不可逆的に拘束する社会学的現象、すなわち「経路依存性」という名の呪縛に他ならない。本稿では、彼の「憑在論的な遺産」を深く受け継いだ、水木しげる生誕100年記念作品『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023年公開、監督・古賀豪)をテキストとし、近代的な理性が機能不全に陥った世界において、いかにして倫理的な『生の強度』回復し得るかについて論じる。ここで言う「呪縛」とは、単なる超常現象として片付けられるものではなく、フランスの哲学者ジャック・デリダの提唱する「憑在論(hauntology)」に通底する、過去の権威や因習が現代の倫理的判断を構造的に制約する「歴史の亡霊」を指し示す。制度疲労を起こしたシステムが崩れゆく轟音の中で、新たな生存の論理を確立するという緊急の課題に直面している。

【憑在する蒼炎と、解放の奔流】
作品データ
タイトル:鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎
公開:2023年11月17日
原作:水木しげる(マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』)
監督:古賀豪
主要スタッフ:吉野弘幸(脚本)、谷田部透湖(キャラデザイン)、川井憲次(音楽)
制作:東映アニメーション

序論

[前回の論考]で、機能的倫理による政治的代償について考察した1。対照的に、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が提示するのは、情報化される以前の、より土着的で逃れ難い「血と土地」に根ざした呪いの領域である。

本作は、戦後日本の復興の影に隠された旧態依然とした権力構造と、それに絡め取られた人間の悲劇を、水木しげるという特異な作家のレンズを通して再構築する。終戦直後の混乱期を背景としつつも、その物語の深層は、グローバリズムやAI時代を迎えながらも旧来の構造から脱却できない日本社会が抱える倫理的アポリアを鋭く照射する。

特に、本稿を公開する11月30日は、2015年に93歳で逝去した水木の没後10周年にあたり、「ゲゲゲ忌」の日付と重なる。水木が長年暮らした東京・調布市で毎年追悼イベントが開催されるこの日は、単なる記憶の日ではなく、水木が生涯問い続けた「死後の世界」や「戦争の記憶」といった、理性が未だ触れ得ない非合理な領域を、改めて現代へ引き継ぐ「歴史的な継承の日」としての意義を持つ。

家父長制的な意思決定の硬直化や、システム化された環境不正義といった、理性では解決し難い非合理な遺産が、現代の生存倫理をいかに規定しているのかを、本論では三つの側面から深く考察する。

1. 歴史の呪いと経路依存性:生存倫理を縛る組織の病理

哭倉村に深く根ざす旧弊な因習と、巨大な製薬会社「龍賀一族」による閉鎖的な支配構造は、現代社会における組織の病理を象徴的に図像化している。この構造的欠陥を、経済学および社会学の概念である「経路依存性(Path Dependence)」の視点から分析することで、なぜ変化が困難であるかという問いへの解像度を高める。

1.1. ロックイン効果としての家父長的な意思決定

龍賀一族が村に張り巡らせた絶対的な権威と、その非合理な継承の様式は、現代の企業組織や政治における「旧態依然とした意思決定」の構造と驚くべき相同性を持つ。これは経済学で言う「経路依存性」、すなわち一度採用された制度や慣習が、たとえ非効率的であっても、変更に伴うコストや摩擦を避けるために維持され続ける「ロックイン効果」の極致である。具体的に、龍賀一族の「血の論理」が支配する閉鎖性は、現代日本の大企業や政治組織において指摘される労働生産性の低下や、失敗の共有を許さない組織風土と構造的に類似している。水木が描く「呪い」とは、この合理的判断を阻害する「過去の成功体験への過剰適応」そのものであり、それが個人の倫理的な判断や自由な生存の可能性を「歴史の亡霊」として縛り続け、組織全体を破滅的な結末へと暴走させる要因となる。

1.2. 憑在論的な権力の作用と個人の埋没

この「呪い」の構造は、哲学者ジャック・デリダの「憑在論(hauntology)」的分析によって、より深く捉え直すことが可能である。デリダが示すように、歴史的な過去は完全に消え去ることはなく、一種の「亡霊」として現代の倫理的判断や社会構造に作用し続ける2。哭倉村の因習は、まさにこの「過去の亡霊」が具現化したものであり、現代の組織における「同調圧力」や「忖度」といった、明文化されていないが強力に作用する規範を駆動している。ミシェル・フーコーの権力論の視点から見るとき、この目に見えない権力の行使(呪いの作用)は、個人の身体と精神を規律化し、システムへの疑問を封殺する機能を持つ。この呪われた構造の下では、理性的な「生存競争」や「自己決定」は妨げられ、個人の生は「組織の維持」という目的のために消費され、埋没していくのである。

2. 組織的無責任と環境倫理:システムに絡め取られた加害の構造

映画の背景をなす、哭倉村における禁忌の秘薬「M」の生産とそれに伴う悲劇は、単なる物語上の設定ではない。それは、現代の気候危機や環境汚染といった、システム全体が加担する「顔の見えない加害」の構造を告発する強力なメタファーである。ここでは、社会学者ウルリッヒ・ベックが提唱した「組織的無責任(Organized Irresponsibility)」の概念を補助線として、この構造的な暴力を解剖する。

2.1. 哭倉村の搾取構造と現代の環境不正義

哭倉村で行われていた秘薬生産は、巨大資本(龍賀一族)の利潤追求が、弱者である地域住民や外部の犠牲者の生命を不可逆的に搾取するという、冷徹な「環境不正義」の構造を露呈させている。これは、現代社会において、グローバル・サウスや社会的弱者が、先進国の経済繁栄の代償として気候変動や汚染の被害を不均等に被る状況と直結する問題である。システムがもたらす「経済的繁栄」や「国益」という大義名分の下で、個人の生存権が構造的に侵害されるとき、この構造こそが現代における最も強力な「呪い」となる。さらに、経済的利益の論理が、いかにして「生命の倫理」という根源的価値を麻痺させ、社会全体に「見て見ぬふり」という非合理な自己欺瞞をもたらすかを、論考は直視する必要がある。

2.2. システムの外部化と責任の蒸発

この問題の本質は、ウルリッヒ・ベックが指摘した「組織的無責任」にある。巨大なシステムの中で分業が進みすぎた結果、個々の担当者は「規則に従っただけ」となり、誰も全体の結果に対して責任を取らない、あるいは取れない状態が生み出される。哭倉村の惨劇において、多くの村人が沈黙を守り加担したのは、個人の邪悪さのみに起因するものではなく、責任の所在を曖昧にするシステムによって倫理的判断能力が麻痺させられていたためである。これは、現代のグローバル・サプライチェーンにおける労働問題や環境破壊にも通底する。合理的なガバナンスが機能しない「無責任の体系」の中で、個人の生存倫理は、自らの力では制御不能な「システム的な不正義」の領域へと押し込められる。この映画は、人間社会が作り出したシステムそのものが、最終的には個人の生存を脅かす制御不能な怪物と化すという、現代的なサバイバル・ホラーの主題を内包している。

3. 非合理な生存の帰結:決断主義と原初的生の倫理

水木とゲゲ郎という二人の主人公が、崩壊しつつある村で共闘し、絶望的な状況下で「誕生」を勝ち取る物語は、前述の経路依存性と組織的無責任という二重の呪いからの脱却を図る、唯一の倫理的な「希望」を提示する。本稿は、このプロセスを、理性が役立たない極限状態における「決断主義」と「ケイパビリティ」の獲得として解釈する。

3.1. 倫理的空白地帯における決断主義のパラドックス

哭倉村の崩壊は、龍賀一族による因習と秩序の完全な瓦解を意味する。法や規範が機能を停止したこのような「例外状態」において、あえて行動を選択することは、政治哲学者カール・シュミットが論じた「決断主義」の領域に接近する。シュミット的な文脈における決断は、独裁や暴力へと繋がる危険性(リスク)を常に孕んでいる。事実、龍賀時貞の振る舞いは、他者を顧みない独善的な決断主義そのものであった。しかし、水木とゲゲ郎の共闘は、同じ「非合理な力」を行使しながらも、その性質を決定的に異にする。彼らの決断は、自己保存の本能を超えた、他者(未来の子供)への「ケア」と「責任」に基づいているからである。理屈を超えて手を組む彼らの姿は、リスクを引き受けた上でなお、硬直した「死に至る理性」よりも、泥臭い『生の強度』を選ぶべきであるという、覚悟ある倫理的提言として響く。

3.2. ケイパビリティの開花と呪いからの解放

鬼太郎の誕生は、家父長制の「血の呪い」のサイクルを断ち切る、メタフィクション的かつ倫理的な「希望」の象徴である。この希望は、経済学者アマルティア・センの「ケイパビリティ(潜在能力)」アプローチ3と接続可能である。センが説くように、真の豊かさとは所得や地位ではなく、個人が価値あると認める生き方を追求できる実質的な自由にある。廃墟の中で生まれた鬼太郎は、龍賀一族が固執した「家」や「富」といった既存の価値体系をすべて失っているが、同時にそれらの呪縛からも解き放たれている。水木とゲゲ郎が命を賭して守り抜いたのは、システムに依存しない、ゼロベースの「生」そのものが持つ可能性であった。この、非合理な力をもって非合理な呪いに立ち向かう「原初的生」の復権こそが、理性では解決し得ない現代の課題に対する、最も根本的な「生存の倫理」の提示である。

結論

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、近代的な「理性」や「システム」の裏側に潜む「歴史の呪い」と、それが現代の生存倫理をいかに規定しているかを、痛切に詳述する批評的な傑作である。経路依存性に陥った組織の硬直化、そして組織的無責任による環境不正義は、2020年代に克服しなければならない「構造的呪縛」の具現化である。この論考が終結部において示した極限の倫理は、まさに連続批評企画の到達点である。

【理性の最果て:システム崩壊後の『生の強度』と『非合理な呪縛』の倫理学】4

物語の終着点は、この構造的呪縛に抗い、理性を超えた決断と原初的生をもって未来を切り拓く、『生の強度』の肯定にあった。それは美しく整った希望ではなく、泥と血に塗られた、異形で力強い希望である。哭倉村という名の現代社会で生き残るために必要なのは、システムへの過剰適応ではなく、システムが崩れ去った後もなお立ち続けるための、この原初的生に基づく倫理に他ならない。

この物語が問いかけた「生」の根源的な問いは、文明というシステムが完全にリセットされ、個人の『生の強度』のみが唯一の頼りとなる、次の極限的な状況へと論考の焦点を移すことを促している。次回は、『地球上の最も単純な生』、つまり、ウイルスによって人類が絶滅の危機に瀕した世界で、愛と生存の意味を問う物語へと歩を進める。

  1. 前回記事「『テルマエ・ロマエ』:機能的倫理とウェルビーイングの政治的無力化」では、では、機能的倫理とウェルビーイングの政治的無力化について考察した。そこでは、壮大なシステムが疲弊する中で、人々が身体への回帰と自己配慮(ウェルビーイング)という個人的な「癒やし」に逃避することで、かえって構造的な不正義が温存されていく現代のパラドックスが焦点となった。
  2. ジャック・デリダの憑在論における、「過去の亡霊(呪い)」が不在のまま現在に影響を与え続ける構造の分析。歴史の残滓が、ゼロベースの生存競争を妨げる論理。
  3. アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチによる、経済的指標ではなく「何ができるか(Doing)」「ありたい状態(Being)」を重視する自由の再定義。
  4. 本稿は、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追う連続批評企画【理性の最果て】の最終回である。過去の論考は以下の通りに展開された。1. 80s『じゃりン子チエ』:システムの影に息づく非合理な生存戦略。2. 90s『キッズ・リターン』:敗北の倫理と周縁に宿る生の強度。3. 00s『パプリカ』:夢のデータ化と「神経権」の危機。4. 10s『テルマエ・ロマエ』:機能的倫理とウェルビーイングの政治的無力化。そして本稿5. 20s『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、歴史の呪いと、崩壊後の『生の強度』を主題とする。
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