時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『CURE』:空虚な殺意と「構造的疲弊」のウィルス

映画システムと規範の構造1990年代精神と内面の構造

ある日突然、見知らぬ他人の一言で、あなたの「倫理」と「自己」がウィルスに侵され、抑圧していた殺意が解き放たれるとしたら、あなたはそれを「悪意」と呼べるだろうか。1997年の日本映画『CURE』が示したのは、システムの暴走ではなく、人間の内面そのものが、言語を媒介に連鎖的な崩壊を引き起こすという、Jホラーの範疇を超えた究極の問いである。私たちは今、特定の場所から姿を消し、内面化された「悪意の主体」が誰にでも感染しうるという、極めて現代的な恐怖の起源を再訪する。

【倫理の浸食と、内面に燃ゆる無垢な炎】
作品データ
タイトル:CURE
公開:1997年12月27日
脚本・監督:黒沢清
主要スタッフ:喜久村徳章(撮影)、ゲイリー芦屋(音楽)
制作:大映

序論:1997年「日本映画のリバイバル」と「構造的疲弊」の衝撃

本稿は、【倫理とシステムの崩壊史:時代と共に変異する『悪意の主体』への生存戦略】という大テーマに焦点を当てた全5回連載の批評企画の一部である。この連載は、80年代から20年代までのシステムと倫理の変遷を追うものである。

[前回の論考]では、押井守の『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)における「システム内部の悪意」を分析した1 。この問いへの考察として、本稿が扱うのは黒沢清の『CURE』(1997年)である。

1997年は、日本の映像文化が「内部崩壊の時代」の果てに「リバイバル(復興)と国際的躍進」を遂げた象徴的な時期であった。1995年の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件(オウム真理教)、そして山一證券の自主廃業に象徴される金融システム危機といった国家的ショックを経て、社会の根底的な不安と不信が最高潮に達した。この年、神戸市で発生した「酒鬼薔薇聖斗」による連続児童殺傷事件は、特定の動機や理由なき「劇場型殺人」として社会に衝撃を与え、システム維持の主体だけでなく「次の世代の倫理」までもが崩壊しているという恐怖を決定づけた。この危機と断絶の時代、小規模ながらも作家性の強い作品群が国内外で高い評価を獲得し、日本映画が低迷期を脱し、世界の批評の中心に再び躍り出た2

従来の批評空間では、『CURE』の「空虚さ」は普遍的な哲学問題として論じられてきた。しかし、その解釈は「なぜこの時代に、この形で悪意が顕在化したのか」という時代性への回答としては不十分である。本稿の目的は、この「空虚さ」の起源を、普遍的な人間の内面ではなく、1990年代後半の日本社会が直面した「戦後高度成長システムの構造的疲弊」に求め、「生存のための倫理コスト最適化」という新たな生存戦略の起源を論じることにある。

1. 「悪意の主体」の変異:間宮が媒介する倫理のウィルス

『CURE』の連鎖殺人を引き起こす間宮邦彦は、従来の犯罪者像とは明確に異なる。彼自身は暴力を振るわず、「ここはどこだ?」「あんた誰?」という根源的な問いを繰り返す記憶喪失という「空白の主体」として高部刑事らを対話し、彼らの内面に潜む空虚さ、不満、そして破壊衝動を言語によって「解放」させる。 彼のこの能力は、大学時代に研究していた生体磁気とメスメリズム(18世紀ドイツ人医師メスマーの動物磁気説に起源を持つ催眠術)に起源を持ち、彼の行為は「個人の意志の力」というより、科学的に解明されていない構造的な力として機能している。

この間宮の機能は、前回分析した『パトレイバー』のHOSが情報コードという非物質的なツールを用いて物理システムを暴走させたのとパラレルである。間宮は言語・暗示という非物質的なツールを用いて人間の倫理システムを暴走させている。

間宮による「悪意の拡散」は、リチャード・ドーキンスが提唱したミーム(Meme、文化情報の複製子)の概念、あるいはルネ・ジラールの模倣のメカニズムと批評的に接続する3。彼は、相手の「殺人の必然性」というミームを相手の深層心理に埋め込み、それが自律的に増殖し、行為として発現するのを待つ。従来の悪意が「悪意の目的」を持っていたのに対し、間宮のそれは「悪意の伝播」そのものが目的であり、悪意を非人称的なシステムへと昇華させた「悪の伝道師」として機能している。

2. 内面の空虚さ:「システム維持」の疲弊と構造的自己責任論

間宮のウィルスが効力を発揮する背景には、接触する人々の内面的な空虚さ(アイデンティティクライシス)が横たわっている。本稿が克服すべき論理的飛躍は、なぜ殺人を犯すのが「就職氷河期世代」の若者ではなく、刑事、教師、警官といった中年の「システム維持者」なのか、という点にある。

この一見した矛盾こそが、『CURE』の病理の根源を示している。彼らの「空虚さ」は、「システムから排除された者の絶望」(氷河期世代)が抱く空虚さではなく、「システムを維持する側の倫理的疲弊」である。彼らは、戦後日本社会の高度成長を支えた「滅私奉公」的な職業倫理(規範)の最後の担い手であった。

しかし、1990年代後半、バブル崩壊と経済停滞の中で、そのシステム自体が「個人の幸福」を保障する機能を失い始めた。高部刑事の「精神を病んだ妻の介護」という具体的描写は、単なる個人的な不幸ではなく、社会的なセーフティネット(例:介護インフラ)の欠如という構造的な問題が、個人の「自己責任」として転嫁されている様相を象徴している4

間宮が投げかける「あなたは誰ですか?」という根源的な問いは、この「構造的疲弊」によって自己が毀損した人々に対し、「システム(規範)のために自己を犠牲にするお前は何者か」と問いかける構造的自己責任論のウィルスの具現化である。彼の問いかけは、個人に内在する「資本主義的(あるいは共同体的)抑圧」を剥き出しにする精神的な暴力として機能している。

3. 倫理的な「侵食」:「思考停止」と「合理的最適化」の接続

間宮の悪意は、殺人を衝動や快楽としてではなく、「満たされない自己」というコストを即座にゼロにするという、非情な合理性の中で生きるための究極の自己解放戦略として機能させる。

ここで、「非情な合理性(積極的選択)」と、ハンナ・アーレントが論じた「悪の凡庸さ(思考停止)」という、一見矛盾する概念を接続する。

間宮のウィルスは、まず対象の「思考を停止」させ、「なぜ規範を守らねばならないか」という倫理的な葛藤(コスト)を感じさせなくする。間宮に触発された人々は、殺人を犯す際に感情的な葛藤をほとんど示さず、極めて淡々と、機械的に遂行する。これは、アーレントが論じた思考停止と無責任性のもとに行われる「悪」の構造、すなわち「悪の凡庸さ」が、システムの指示ではなく、言語と内面の空虚さを媒介として再現されたことに他ならない5

そして、この「思考停止」こそが、彼らの行動を「合理的最適化」へと導く。倫理的コストがゼロになった状態で、彼らは自らの「構造的疲弊(生きづらさ)」を解消する最も効率的な手段、すなわち原因(妻、同僚など)の物理的排除を、冷徹な合理性をもって選択・実行する。

彼らの行動は、カール・マルクスが論じた疎外の極致において、人間が自らの労働や倫理すらも交換可能なコストと見なすに至るプロセスを示している。間宮は、この疎外された倫理を「治癒」という名のもとに解体し、個人を生存コスト最適化という冷酷な論理へと誘引したのである。

結論:倫理の解体と次なる「裁きの渇望」

限定的な勝利の総括

『CURE』が示したのは、システムの悪意が非物質化し、人間の言語と「システム維持の構造的疲弊」という内面の空虚さを媒介することで、社会全体にウィルスのように拡散していく様相である。刑事高部は、個人的な倫理の崩壊(妻の死を介した自己の虚無への直面)の果てに間宮という媒介者を抹殺する限定的な勝利を収めるが、悪意の種(ウィルス)は彼自身に感染し、社会に残り続けていることを暗示する。

次なる問題の提起

倫理的な防御システムが解体され、内面にウィルスが潜む状態となったとき、この特定不能な悪意が蔓延する社会において、個人が自らの「生存」のために最も強く渇望するのは、非情な合理性をもってその悪意を瞬時に「処理」し、「コストをゼロ」にするための「絶対的な裁きのシステム」ではないだろうか。システムが機能不全に陥ったとき、その裁きを個人が横取りし、自己の欲望と正義を極限まで肥大化させたとしたら、その先に待つものは何だろうか。

次回は、その裁きの渇望が、絶対的なシステム(ルール)を個人が手に入れたことで、いかに独裁的なシステムへと変貌していくのかを考察する。

  1. 前回記事「『パトレイバー the Movie』:論理の純粋性と「システムの内部に仕込まれた悪意」」では、HOSというOSに仕込まれたバグが、物理インフラを崩壊させるプロセスを検証した。それは「悪意」がまだ特定のコードやプログラムという「外部システム」に存在していた時代の物語であった。本稿は、その悪意が「人間の内面」へと移行する様相を論じる。
  2. 1997年の日本映画の躍進: この年、北野武の『HANA-BI』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を、今村昌平の『うなぎ』、河瀨直美の『萌の朱雀』がカンヌで主要な賞を獲得し、アニメでは『もののけ姫』や『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』が社会現象となった。日本映画批評の権威であるドナルド・リッチーは、この時代の作品群が、従来の美学ではなく、「現代社会の病理」を厳しく見つめることで、国際的な批評性を獲得したことを指摘している。
  3. ルネ・ジラールの模倣のメカニズムとミーム論: 間宮は、殺意という「模倣の対象」を直接提示するのではない。彼は、対象の倫理的防御(罪悪感)を一時的に除去することで、殺人を模倣しやすい環境を作り出す。これは、自己の欲望や衝動が他者を媒介として連鎖的に伝播するというジラールの理論に、ドーキンス的な「感染」の概念を掛け合わせた、極めて現代的な倫理の崩壊図である。
  4. 1990年代の「構造的疲弊」: 1997年当時は、山一證券の自主廃業に象徴される「失われた10年」の只中であった。増加する介護負担はインフラ整備の欠如によって「個人の家庭」に直撃していた時期と一致する。高部刑事らの「空虚さ」は、「システムの恩恵」なき「倫理的義務」だけを強制されるという構造的疲弊(Structural Fatigue)の結果に他ならない。この疲弊は、氷河期世代の「排除の苦悩」とは異なるが、同じく「システム不全」に起因する病理である。
  5. ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」: 間宮のウィルスは、彼らに積極的な殺意(悪意)を植え付けるのではない。それは、彼らが無意識に抱えていた「倫理的負荷」からの一時的な「治癒(CURE)」であり、倫理的思考を停止させる麻酔として機能する。
タイトルとURLをコピーしました