時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『ドライブ・マイ・カー』:倫理の停止と「氷河期世代の自己責任論」の深層

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理精神と内面の構造ノベル2020年代

なぜ私たちは、最も向き合うべき他者の「真実」から目を逸らしてしまうのか。それは単なる心理的な弱さの表れではない。公的規範が揺らぎ、過度な自己責任論が個人の内面を侵食する現代において、他者の苦悩に「正しく」応答することは、個人の能力を超えた「倫理的負債」となりつつある。さらに言えば、2025年の現在、私たちを取り巻くコミュニケーションが、摩擦のない「人工知能(AI)との対話」へと急速に代替されつつある状況は、この「内省の放棄」という課題をより深刻なものにしている。この批評は、喪失の淵に立つ個人が抱える絶望の構造を、知的な分析(倫理学、ナラティブ論)と、避け難い情緒的な共感(喪失、悲哀)の両面から橋渡しする、連載の最終回答である。

【停止した時間と、四角い記憶の密室】
作品データ
タイトル:ドライブ・マイ・カー
公開:2021年8月20日
原作:村上春樹(短編小説『ドライブ・マイ・カー』)
監督:濱口竜介
主要スタッフ:濱口竜介・大江崇允(脚本)、四宮秀俊(撮影)、山崎梓(編集)、石橋英子(音楽)
制作:C&Iエンタテインメント、ビターズ・エンド ほか

序論

絶望的なシステムに抗する集団的な知性の物語1 を経た後に残されるものは、個人の内面における、より静謐で、しかし根源的な「喪失の深淵」である。2021年に公開された『ドライブ・マイ・カー』は、その監督である濱口竜介(1978年生まれ)が、エリート的背景を持ちながらも、キャリア形成期を「氷河期世代」の構造的停滞期に重ねたという批評的視点から再解釈されるべき作品であり、カンヌ国際映画祭脚本賞や米国アカデミー賞国際長編映画賞をはじめとする驚異的な国際的評価を獲得しつつ、この構造的な暴力との対峙の後に残る「個人的な砂漠」に対し、いかにして倫理的応答を試みるかという、本連載の大テーマ【『悪意の主体』から『倫理の主体』へ:規範と喪失の時代における『私』の再定義】の最終的な問いに対する応答を提示する。

本論考は、濱口の世代的背景(氷河期世代)が作品に深く投影されていると解釈し、主人公・家福悠介が直面する「内省の放棄」という課題の本質を、機会の剥奪と自己責任論の時代という批評軸から照らし出す。家福が、妻・音(オト)の死とその秘密によって直面する「倫理的な空隙」を主題とする。家福が妻の真実に直面することを拒否し、「内省の放棄」という繊細ながらも致命的な選択を継続した事実は、システムへの不信から過度な自己責任論へと傾倒しがちな現代社会において、他者の複雑な内面に対する倫理的責任を引き受けることを逡巡する現代人の姿と重なる。公的倫理の崩壊が個人に内面化した結果、他者の顔2 への応答を放棄し、孤独な悲哀に固着するこの状態は、系譜的分析の最終段階、すなわち『私』の再定義の最も困難な局面を構成する。

タイトルの解体:「私の車を、誰が運転するのか?」

本作のタイトル『ドライブ・マイ・カー』は、単なるビートルズの引用や移動手段の描写に留まらない、他者による倫理的な強制と対話の構造を暗喩する。

この「ドライブ」は、単なる運転ではなく、「推進力」「駆り立てるもの」という能動的な主体性を意味するが、家福は自分の愛車を他者に委ねる立場になる。これは、彼が「内省の停止」状態にあり、人生のコントロールを失っている受動性を象徴する。

さらに「カー」は、亡き妻のテープを聞き続ける「記憶の密室」であり、トラウマを安全に反芻するためのシェルターだ。このタイトルは、公的ルールが課す不可避的な要請を通じて、みさき(専属ドライバーの渡利みさき)という他者との関係性の中で初めて成立する。すなわち、「他者にコントロールを委ねる行為」こそが、家福が閉じた内面を開放し、後に『倫理の主体』として再生するための前提条件である。このタイトルのメタファーは、以降の批評の全てを貫く構造的なフレームワークとして機能する。

1. 倫理的応答の停止:パンデミック下の内省と「氷河期世代」の病理

第1章では、家福が陥った「内省の停止」という倫理的危機が、いかにして「氷河期世代」特有の病理、および作品が公開された「2021年」という時代精神と共振しているかを分析する。

1.1. 固着した記憶と「能動的責務の回避」としての反芻

家福が愛車サーブ900の移動空間を、亡き妻の録音テープを再生する密室として維持し続けた事実は、彼の喪失が記憶の固着と内省の停止に他ならないことを示唆する。「妻のテープを聞き続ける行為は、誠実な哀悼(グリーフワーク)ではないか」という一般的な解釈も可能であろう。しかし、本批評はその解釈を採らない。なぜなら、その行為は他者(みさき)の介入によって初めて「対話」へと開かれるのであり、それ以前は、解決に向かわず抑うつ的な気分を悪化させる「反芻(Rumination)」3 に過ぎなかったからである。この「内省への固着」こそ、公的システム(社会)からの救済を期待できず、すべてを「自己責任」として引き受けるよう強いられてきた「氷河期世代」の精神性と深く共振する。家福の態度は、他者を裁く『悪意の主体』になることを恐れ、自己の内面(=責任)に閉じこもることを選んだ、この世代特有の倫理的防衛機制の表れである。

1.2. 2021年という時代精神(COVID-19)と社会的共振性

本作が世界的な評価を獲得した要因の一つに、2021年という公開時期の「時代性」がある。濱口が東日本大震災のドキュメンタリー制作を通じ学んだ「突然の喪失」と「復興への意志」というテーマは、COVID-19パンデミックが世界中の人々に強いた「物理的な隔離」と「予期せぬ喪失」、そして「他者との接触の断絶」と共振した。家福がサーブ900という密室で、妻という「喪失」の「声(テープ)」とだけ向き合い続ける姿は、期せずして、ロックダウン下で他者と切り離され、Zoomなどの「ディスエンボディメント(身体性の欠如した)」コミュニケーションに依存せざるを得なかった現代人の孤独そのものであった。人々は、家福の「倫理的な空隙」に、自らが直面する「関係性の空隙」を重ね合わせた。本作の静かなる国際的受容は、この「断絶の時代の共感」によって構造的に支えられたのである。

1.3. 「倫理的療法の場」としての強制的な介入

この閉じた自己完結的な空間(=自己責任論の密室)は、国際演劇祭のルールによって、専属ドライバーであるみさきが運転する空間に配置されることで、強制的に他者に開かれる。家福の固定された記憶と身体は、みさきという他者の存在によって駆動され、この「動く密室」は他者との対話を許容する「倫理的療法の場」として機能し始める。ここで展開される対話は、大義やシステムといった外部の公的規範、あるいは「自己責任」という内的な規範を前提とせず、「個人的な悲哀を媒介とするケアの倫理」4 を静かに再構築する。家福とみさきが、ドライブ中の密室で交わす、「もしほんの少しでも早く帰っていたら、そう考えない日はない」「わたし、母を殺したんです」という断片的な告白は、互いを裁く「正義」ではなく、互いの罪を引き受け合う「ケア」の倫理が成立した瞬間である。

2. 演劇的構造の機能:村上春樹から濱口竜介への「倫理的解凍」

第2章では、この倫理的再構築のプロセスが、原作小説から映画化される際の成り立ちの分析、および批評家からの評価の核心を通じて、いかに達成されるかを探求する。

2.1. 成り立ち:内省(小説)から対話(映画)への変容

本作の批評的核心は、村上春樹の原作小説からの「変容」にある。原作における家福の葛藤は、より内省的(モノローグ)であり、自己完結している。これに対し、濱口は、原作にはない「多言語演劇」という要素を大胆に導入した。これは単なる脚色ではなく、濱口による村上作品への「倫理的応答」である。彼は、原作の「内省」というテーマを、「他者との摩擦(対話)なくして内省は完了しない」という形で、演劇という身体的実践の場へと引きずり出した。家福は、妻の秘密を知りながら応答できなかった自己の「内省の放棄」状態という、支配的な問題の物語(Problem-Saturated Story)に囚われていた。演劇の稽古、特に妻の秘密を共有していた俳優・高槻との対話は、家福にとって、自己の固着した物語を外部から突き崩し、再構成(リ・オーサリング)する物語療法(ナラティブ・セラピー)5 の実践として機能する。

2.2. 多言語演劇という「倫理的摩擦」と批評的評価

特筆すべきは、多言語で行われるこの演劇の構造である。俳優たちは、特定の言語の直接的な伝達という限界を超越し、「身体」という純粋なメディアを介して感情を交換し、役の倫理的苦悩を体現する。この手法は、言語による内省の限界、すなわち思考が堂々巡りする「反芻(Rumination)」状態を解き放つ。現代において、私たちがAIとの対話に求める「摩擦のない、即時的な応答」とは正反対に、この多言語演劇は「理解できないこと(=倫理的摩擦)」を意図的に創出する。この「理解できなさ」こそが、家福に(そして私たち観客に)、意味(Logos)ではなく身体(Soma)に耳を傾けることを強制する。国際的な批評家たちがこぞって称賛したのは、この複雑な脚本構成と、「濱口メソッド」とも呼ばれる独特の演出が、単なるギミックではなく、現代におけるコミュニケーションの困難と可能性を深く描き出した点にある。

2.3. 「声」の欺瞞と「身体」の真実

家福は、妻の「声(テープ)」という「身体なき記号」に依存し、内省を停止させていた。その彼が最終的に救済されるのは、高槻の「内省の暴走(車内での告白)」という失敗例を経た後、韓国から参加した俳優(劇中での役名:イ・ユナ)が演じるソーニャの「声なき身体言語(手話)」によってである。劇中のソフィアが語る「生きていきましょう」というフレーズが、ソーニャの手話による通訳を介して家福の内に響く終盤の場面は、言語(トップダウン)ではなく、トラウマを刻む身体(ボトムアップ)から直接アプローチする6ことで、喪失に固定された「身体と精神」が、他者による「愛と生の意味」の再定義を静かに受容する瞬間として成立する。

3. 氷河期世代の視座:自己責任論の超克と「聴取の倫理」

第3章では、この個人的な再生の物語が、なぜ濱口を含む「氷河期世代」の視座と共振し、現代において新たな倫理の可能性として機能するのかを論証する。

3.1. 構造的暴力と「内省の限界」の超克

本作品が提示する倫理的応答は、巨大なシステム(社会)や公的規範の崩壊から機会を奪われ、その結果として過度な自己責任論を内面化せざるを得なかった世代の視座と強く共振する。1990年代末から2000年代にかけての非正規雇用率の上昇と社会保障への不信は、この世代に「公助」への期待を抱かせず、問題の解決を「自助(=内省)」に求めさせた。家福の「内省の放棄」は、単なる個人の怠慢ではなく、自己の内部を見つめすぎることの危険性、すなわち「内省の限界」7 を示している。構造的な暴力(前回の連載テーマ)に直面した後、残された個人的な悲哀と断絶に対し、個人の内省のみで対処することの不可能性がここにある。この世代が共有する「喪失の感覚」こそが、濱口の作品世界と私たちの批評的視座を接続する基盤である。

3.2. 受容の構造:摩擦なき時代における「聴取の倫理」

本作の批評的な受容の構造の核心は、その「聴取(リスニング)」の姿勢にある。現代は、誰もが「発話」すること(SNS)に躍起になり、あるいはAIが「即時応答」することで、他者の言葉を時間をかけて聴取する能力が著しく減退している時代である。濱口の演出は、家福とみさきの長い沈黙、演劇の稽古における執拗な「本読み」に象徴されるように、「聴くこと」を倫理的な行為として描き出す。この作品は、摩擦のないコミュニケーションが氾濫する現代において、他者のノイズや沈黙を含めて引き受ける「聴取の倫理」の重要性を、静かに、しかし強烈に提示した8

3.3. 「裁く主体」から「引き受ける主体」への移行

家福がみさきとの対話を通じて、妻の秘密を「裁く」立場(=『悪意の主体』)から、妻の存在と喪失を静かに「引き受ける」立場(=『倫理の主体』)へと移行するプロセスは、システム的な責任の重圧から解放され、自己の限界と他者の倫理的要請との間で物語的自己9 を再構築する試みである。彼は、構造的なシステムの外側で、孤立した個人が互いの喪失を媒介として、新しい生存の規範を見出すという、静かなる「倫理の反逆」を体現する。この倫理的回復の旅の象徴として、みさきが家福を連れて行った、ごみ処理施設とは思えないモダンな環境局中工場(谷口吉生設計)が機能する。濱口自身が語るように、この建築物の中央を貫く通路は、広島平和記念公園から瀬戸内海まで遮らずに繋がっており、原爆による「突然の喪失」と、そこから立ち上がろうとする「町の精神性」を象徴的に表現している。建物中央の「エコリアム」という貫通通路が平和公園から瀬戸内海へと真っ直ぐ繋ぐその構造は、家福の閉ざされた内面が、他者との対話を通じて開かれ、未来へと繋がっていくメタファーとなっている。

結論

家福が、みさきと共に雪に閉ざされた場所で互いの孤独を抱きしめ、その後みさきが韓国の地で、未来へと車を走らせる姿は、『悪意の主体』として他者を裁断することを回避し、個人の悲哀と内省の果てに、他者との関係性の中で『倫理の主体』として再定義された『私』の、最も静かで深い到達点を示す。公的規範が崩壊し、個人が機会を剥奪された時代において、この「対話とケアの倫理」こそが、孤立した時代における「愛と生存の再定義」であり、本連載の辿り着いた結論である。この内省的な回復の先に、私たちに残された、現実と虚構の境界が曖昧な世界で、倫理的選択の主体がどのように「夢」という名の共同幻想と対峙するのかを、次なる論考で探求する。

  1. 前回記事「『約束のネバーランド』:愛の機能化と「数値化される人間の倫理」」は、「愛の機能化」と「数値化される人間の倫理」という批評軸を通じて、集合的な主体性の確立を描いた。同作は、すべてが「最適化の論理」(愛情による心理的統制、デジタル・ガバナンスとの共振)の下に置かれた絶望的な状況下で、主人公たちが戦略と実践(集合知)を通じてシステムの欺瞞を打ち破る「倫理的責任の集合体」の記録である。しかし、その解放は同時に、「集団浅慮の脆さ」や、外部ルールが存在しない世界での「内在的規範の責任」という重い課題を課す。このシステムとの対峙の後に残る、内省的かつ個人的な課題こそが、本稿『ドライブ・マイ・カー』が主題とする「喪失の深淵」へと論理的に接続される。
  2. エマニュエル・レヴィナスが提示した概念で、他者の顔は、その無限なる脆弱性と同時に自己に対する無条件の倫理的要請を発する。家福の妻の秘密への応答不能は、この他者への倫理的応答からの逃避として解釈可能である。
  3. 「反芻(ぐるぐる思考)」とは、ネガティブな出来事について「なぜこうなったのか」と内省を繰り返すことが、かえって問題解決を妨げ、抑うつを悪化させる心理状態を指す。家福の内省がこの状態にあったと定義できる。
  4. キャロル・ギリガンらによって提示された、公正や正義といった抽象的な原理に基づく倫理(正義の倫理)と対比し、関係性、相互依存、応答性を重視する倫理。ここでは、二人の関係性による倫理の再生として捉えられる。
  5. 個人を問題(例:「うつ」)と同一視せず、問題の物語を「外在化」し、支配的な物語を書き換える(リ・オーサリング)ことを目指すアプローチ。家福は「応答できなかった私」という物語に支配されていた。
  6. トラウマは単なる「心の記憶」ではなく、「身体」に刻み込まれ、自律神経系の反応として固着するという知見に基づく。言語化困難な領域に対し、身体感覚から直接介入することで解放を目指す。
  7. 内省は必ずしも自己理解に繋がらず、特にネガティブな出来事についての内省は、問題解決に向かわず、先に定義した「反芻」の状態に陥る危険がある。
  8. 本作が獲得した国際的なインパクトの核心はここにある。批評家たちは、SNSによる分断、AIによる即時応答、キャンセル・カルチャーに象徴される「速さと単純化」を求める時代の潮流に対し、濱口竜介の執拗なまでの「時間の遅さ」と、テクストや他者の言葉を「聴取」する演出が、ラディカルな倫理的代替案を提示した点を高く評価した。本作は、その深い心理的洞察と、摩擦を伴う他者との対話の価値を回復させるという点で、現代においてこそ必要とされているのである。
  9. ポール・リクールが提示した、自己のアイデンティティは、経験を物語として構成するプロセスを通じて形成されるという概念。喪失によって断片化した自己を、ドライブや演劇という物語的な媒介によって再構築し、一貫性のある倫理的主体性を回復するプロセスを論証する。
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