時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『GO』:規範なき時代の倫理と「自己決定によるアイデンティティの脱構築」

映画生存と生命の倫理精神と内面の構造2000年代ノベル

社会の基盤たる公的規範が機能を停止した「規範なき時代」において、若き個人は、その絶望的な構造からいかにして「生」への道筋を見出し、倫理的主体として立ち上がろうとしたのか。

【レールの終点と、一筋の自己】
作品データ
タイトル:GO
公開:2001年10月20日
原作:金城一紀(小説『GO』)
監督:行定勲
主要スタッフ:宮藤官九郎(脚本)、柳島克己(撮影)、今井剛(編集)
制作:東映、スターマックス、テレビ東京 ほか

序論

2001年に公開された行定勲による映画『GO』は、この根源的な問いに対する一時代の回答として、鮮烈な光を放つ。本作の公開された時代は、すなわち「就職氷河期」の真只中1であり、公的システムの崩壊が個人の存在基盤を直接的に脅かした時期と重なる。

主人公は、「国籍」や「民族」という重苦しいアイデンティティが、社会の制度や、最も身近な存在の行動によっていとも簡単に交換できる「記号」に過ぎないという真実に気づく。この「すべてを捨てる」という過激な行為こそが、彼が生き残るための唯一の倫理的な道だったのだ。本稿は、彼のこの「生存倫理」を、現代の「何を信じて生きるか」という切実な問いとして再考する。

本批評企画は、【『悪意の主体』から『倫理の主体』へ:規範と喪失の時代における『私』の再定義】を大テーマとする系譜的分析の一部である。先行する論考が扱った「公的規範の停止」2がもたらした絶望に対し、本作は、いかにして個人の存在基盤を脅かしつつ、同時に「自己による倫理」の構築を促すのかを、主人公・杉原の「逃走の倫理」を通して厳密に描出する。彼は、自身を外部に置く欺瞞的な公的システムに対し、知的かつ身体的な抵抗という能動的な行為をもって、『私』という倫理的主体を自己の意志で再定義する試みに挑むのである3

1. 規範なき周縁と「自己による倫理」の構築

主人公・杉原が置かれた「在日」という周縁的な立場は、彼を「日本社会」という強固な公的規範システムの外部に位置づけた。この外部性は、彼のアイデンティティが国籍法、歴史教育、差別的な眼差しといった「制度の恣意性」によって連続的に書き換えられるという、根源的な「存在論的暴力」に直面することを意味する。杉原の存在様態は、社会学者のゲオルグ・ジンメルが指摘する「社会的な形式と個人の生命の対立」4として捉えることが可能である。

杉原のアイデンティティは、さらに、元プロボクサーである父・秀吉の外部的な「集団的要請」に対する身振りによって、連続的に換装可能であることを強いられる。朝鮮学校で教育を受け5、民族的ロマンティシズムを内面化させられた彼は、突如、父の韓国籍取得という行動によって、そのアイデンティティの根底を揺さぶられる。この父の行動は、民族的イデオロギーや歴史的背景が、日本社会という外部の「制度の恣意性」(例:就職、在留資格)によって、いかに簡単に「記号」として扱われるかを杉原に体現させる強烈な皮肉である。秀吉は国籍変更と同時に、玄関に飾られた家族写真に言及し、呼称を「パパ、ママ」へ変更することを一方的に通告する。この国籍や呼称といった重い、あるいは私的な記号の換装が、父の恣意によって極めて軽やかに決定される二重の行為は、杉原に、それまで内面化を強いられてきた民族的・歴史的な「重荷の正体」が、換装可能な記号に過ぎないことを悟らせ、すべての規範が相対的であるという認識を決定づける。この一連の出来事は、秀吉の「広い世界を見ろ、そして、自分で決めろ」という言葉が示すように、杉原に主体的な選択の契機を突きつける。

これが、杉原がどちらの共同体からも脱出し、「ただの杉原」になるという脱構築的な倫理的応答へ至る決定的なトリガーとなる。この脱構築的な行動、すなわち朝鮮学校から日本の高校への転校は、与えられた規範ではなく、自ら選択する「生の主体」として立つことを強いられた、自己保存のための倫理的実践である。先行作品『HANA-BI』が規範の「放棄」という終末的応答を選択したのに対し、杉原はシステムの外側に置かれたことで、その欺瞞性を内面化せず「客観視」することが可能となった。このパラダイムシフトによって、彼はどのコミュニティからも脱出するという、極めて誠実な孤独を選び、規範への盲従という自己欺瞞を拒否し、自己による倫理構築の契機を獲得したのである。

2. 軽やかな抵抗の戦略と「流動的アイデンティティ」の倫理的優位性

教育制度や民族差別という形で現れる公的制度の欺瞞に対し、杉原が選択したのは、重い主題を軽やかに疾走するトーンそのものを利用した「知的・身体的な抵抗戦略」であった。

第一に、身体による抵抗である。父から継承したボクシングの技術は、杉原によって社会システムへの抵抗のための「脱規範化された実践(喧嘩)」へと転用される。地下鉄の線路を疾走し、国籍や血統というアイデンティティの重力から抜け出そうとする行為は、彼にとって「父による身体規範の継承」を、自らの意志で「既存の共同体から切断するツール」として能動的に転用する倫理的実践である。これは、与えられた規範ではなく、その瞬間瞬間の「生の主体」として立つための、痛みを伴う摩擦の描写として主題的に機能している。

第二に、レトリックによる抵抗である。原作小説が持つ軽妙な文体を、脚本家・宮藤官九郎が映像的な内語(モノローグ)として転用・増幅した、シニカルで遊び心のある言葉遣いは、杉原にとっての「武器」である。映画冒頭のモノローグで「民族、祖国、国家、単一、えー、愛国、(中略)気持ち悪。支配、抑圧、土俗、あ、隷属か。(中略)団結」という「重い言葉の羅列と即座の拒絶」6に象徴されるように、彼は差別的な言説に対し、ユーモアとスピード感のある応答で、その言葉の権威を破壊する。この態度は、差別という行為の本質的な不合理性を晒し出すポストモダン的な「脱範疇化」の戦略であり、「個人の知性による抵抗」として機能している。

この杉原の「脱構築的アイデンティティ」は、現代社会において以下の点で倫理的優位性を持つと定義される。

  • 対立意見(アイデンティティ・ポリティクス)との比較: 杉原の選択は、特定の集団属性に基づく連帯や抵抗を重視するアイデンティティ・ポリティクス(IP)の観点から見れば、「共同体への無責任な逃避」と批判される可能性がある7
  • 倫理的優位性:にもかかわらず、杉原の流動性は、固定的なアイデンティティへの固執が生む「自己欺瞞」や「集団内部の規範化」を拒絶し、他者の存在を(規範を介さず)直接的に受け入れる「包摂性」を担保する。彼は、自己の行動原理を説明可能とする「自己決定性」を獲得しており、これはIPが内包しがちな「アイデンティティの本質主義化」を回避する倫理的な価値を持つ。

3. 愛の完遂と「流動的アイデンティティ」の倫理的帰結

杉原の愛の追求、すなわちヒロイン・桜井との関係性の模索は、彼が「規範なき故郷」からの逃走を完遂させるための、実存的な最終回答を提示する。彼が「在日」のアイデンティティを剥奪し、「ただの杉原」として結ばれようとする試みは、血縁や国籍といった「与えられた規範」を根本から超克する、ラディカルなアイデンティティの脱構築を意味する。彼は、桜井という具体的な他者との関係性を上位に置き、「俺は俺であることすら捨ててやる」という自己決定を敢行する。

この自己決定は、規範の外側で、自己を律し倫理的に形成するフーコー的実践8であると解釈できる。桜井が最後に受け入れたのは、民族的葛藤の奥底にある「どうしようもないほど孤独な、ただ一人の杉原」という「個」の実存であった。この無条件の承認は、国や血統といった共同体の論理を完全に停止させ、杉原に究極の解放をもたらす。

この『GO』が示した、アイデンティティの流動性を主体的選択へと転換する応答は、ジョブ型雇用社会におけるキャリアの流動性や、ソーシャルメディア上での多重なペルソナ(分人)といった2025年の社会要請そのものと強く共振する。氷河期に「終身雇用」という規範が崩壊したように、現代社会は、個人に対し、特定の共同体(会社、地域、属性)に固執せず、自己のスキルと価値観を自己決定し、流動的に他者と接続する態度を要請する。杉原の「何者でもない自分を選ぶ」倫理は、現代の「生存のための倫理的装備」として再評価されるべきである。

結論

『GO』は、規範なき時代において、アイデンティティの探求が「何に属するか」ではなく、「何者から自由であるか」という倫理的な選択の問題であることを深く問いかけた、21世紀初頭の重要な社会批評作品として位置づけられる。

『GO』によって確立された「個人の知性による抵抗と逃走」の倫理は、次なる時代において、さらなる規模の変容を遂げる。次回は、このミクロな倫理的挑戦がいかにして、個人レベルの葛藤から脱し、「隠された全体システム」に対する「集団的な知性」を武器とした反逆へとスケールアップし、支配構造の内部から新しい規範を創造しようとするのかを考察する。

  1. 日本のバブル崩壊後の1990年代半ばから2000年代前半にかけて、企業による新卒採用が著しく抑制された時期。社会の規範として機能していた「終身雇用制」の事実上の停止が、若年層の集合的アイデンティティを根底から揺るがした時代と構造的に接続する。
  2. 前回記事「『HANA-BI』:極私的倫理と「自己完結型制裁」の原型」は、公的倫理が機能不全に陥った社会で、主人公・西が極私的な「愛の完遂」のために社会規範を「放棄」し、暴力へと転じる終末的な応答を分析した。本稿は、その絶望的な状況下で、いかにして若者が「生」への道を見出そうとしたのかという論理的な接続を確立する。
  3. 本作の成立と受容:原作は2000年に直木賞を受賞した金城一紀の同名小説。監督に行定勲、脚本に宮藤官九郎が起用され、日韓提携で製作された。在日を主人公とする作品として両国で全国公開され、第25回日本アカデミー賞最優秀賞8部門を席巻した。なお、本作でデビューし、杉原の学友である元秀を演じた新井浩文は後年、強制性交という重大な不祥事を起こし活動を停止している(※2025年12月に舞台で日替わりゲストとして復帰予定)。この事実は、本稿が主題とする「自己決定的な倫理」の極限的な難しさ、そして「規範からの逸脱」が単なる物語上のフィクションに留まらないという、時代と作品に内在する二重の問いを観客に突きつける。
  4. ゲオルク・ジンメル『社会学―社会化の諸形式についての研究』。特に、個人を規定しようとする社会形式(規範)と、それを超出しようとする個人の生(生命)との間に生じる恒常的な緊張関係を指す。
  5. 作中の朝鮮学校は、総連系の民族教育機関であり、総連系のアイデンティティを内面化させる場であった。
  6. 映画冒頭の杉原のモノローグ全文は「民族、祖国、国家、単一、えー、愛国、統合、同胞、親善、気持ち悪。支配、抑圧、土俗、あ、隷属か。侵略、偏見、差別、なんじゃそりゃ。排斥、排他、選民、血族、混血、純潔、団結。」。イデオロギー用語から二項対立的な概念までを羅列し、そのすべてに「気持ち悪」「なんじゃそりゃ」という軽薄な拒絶の言葉を投げかけることで、言葉の持つ権威を解体し、規範への同一化を拒むレトリックの戦略である。
  7. IPは構造的差別の是正に有効である反面、アイデンティティの固定化を招き、社会の分断や普遍的な経済問題の不可視化を助長する危険性が指摘されている。
  8. ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』。外部の権威や規範を拒否し、自己を律し、倫理的に形成していく主体的な実践を指す。杉原の行為は、与えられたアイデンティティを拒否し、自己を再構成する行為としてこれに合致する。
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