時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『HANA-BI』:極私的倫理と「自己完結型制裁」の原型

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理1990年代精神と内面の構造

システムに見捨てられたとき、愛する者を守るため、法を犯す「最後の倫理」を選択せざるを得ない状況に、人はどう対峙するか。絶望的な状況下で、元刑事・西が妻との最後の旅路のために暴力と破滅を選択したとき、それは単なる「アウトローの美学」として片付けられるべきか、あるいは公的規範が機能停止した世界で個人が担うことを強いられた「極限の倫理的代行」と見なすべきか。1990年代の社会システム崩壊という病理を背景に、彼の孤立した決断が孕む私的愛の絶対化の論理は、現代のデジタル空間で再生産される「自己完結型制裁」の構造と驚くべき共振を示す。

【咲く愛と、朽ちる規範】
作品データ
タイトル:HANA-BI
公開:1998年1月24日
監督・脚本・編集:北野武
挿入画:北野武
主要スタッフ:久石譲(音楽)、山本英夫(撮影)、磯田典宏(美術)
制作:バンダイビジュアル、オフィス北野

序論:公的倫理の断絶と「私的愛」への逃避としての暴力

本稿は、【『悪意の主体』から『倫理の主体』へ:規範と喪失の時代における『私』の再定義】という大テーマに焦点を当てた全5回連載の批評企画の一部であり、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追うものである。

「大義」の名の下に個人の生存権が構造的に剥奪される時代を経て1、公的システムがその倫理的機能を事実上放棄した後の個人は、いかにして自らの「倫理の主体」として立ち上がろうとするのか。1997年に公開され、第54回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した北野武の『HANA-BI』は、この根源的な問いに対し、「システムに背を向けた極私的な愛の絶対化」という、倒錯的かつ美学的な応答を示した。本稿は、日本のバブル崩壊と社会神話の瓦解が並行した1990年代というコンテクストにおいて、主人公・西の孤立した行動原理を多角的に分析し、「規範と喪失の時代」における「私的倫理への転化」の論理を考察する。

1. 構造的不信の時代と「倫理的エージェント」の破綻

西という元刑事の主体が「公的規範」を放棄し得た背景には、1990年代日本社会における「システムの不可謬性」が決定的に崩壊した客観的な文脈が存在する。

経済的には、バブル崩壊後の「失われた10年」が社会の基盤となる経済的信頼を根本から覆し、完全失業率の上昇と雇用の不安定化(非正規雇用の拡大)は、個人に「公的な保護への期待」を断念させた2

さらに決定的なのは、西が所属していた警察という「国家の倫理的エージェント」自体の信頼の崩壊である。1990年代中盤には、大規模な警察不祥事や汚職事件が立て続けに報道され、公安機能への社会的信頼は著しく低下していた。このような社会的な不信感に加え、西は同僚の堀部の負傷や田中の殉職といった、自らの過失が招いた個人的なトラウマをフラッシュバックとして反復的に抱え込む。これは、公的規範の執行者である自身が「システムの救済力」よりも「個人の過失と責任」の重さに打ちのめされ、警察という大義が脆く無力に崩壊し得ることを心理的に証明した。この社会的状況下で、西は同僚の死、自身の過失による事故、そして妻の不治の病という三重の個人的な「喪失」に直面する。この「公的規範の衰退」と「個人的な責務」の重層構造こそが、西に警察機構へ戻る選択肢を完全に棄てさせ、公的システムを介さない「自己完結」の倫理的必然性を強いたのである。彼の銀行強盗というシステムへの反逆的な暴力は、「愛」という極私的な責務を遂行するための切実な「倫理的代行」として位置づけられる。

2. 「美学的逃避」としての暴力と諦念の美学

『HANA-BI』は、1997年という日本映画史の転換点に発表された。この年は、本作の金獅子賞受賞に加え、他の世代や若手の作家たちが国際的な権威ある賞を獲得し、当時の批評家が「従来の美学ではなく、現代社会の病理を厳しく見つめる潮流」が日本映画界の国際的批評性を獲得したと指摘した時期と重なる3

西の行動を「美学的達成」としてのみ捉える既存の批評は、この時代の「病理」への応答という側面を見誤る。彼の暴力は、高純度な芸術的様式によって提示されることで、その倫理的な重さを中和し、「運命的な必然性」へと昇華されている。

  • 音楽の機能: 久石譲による抑制されたピアノの旋律は、西の衝動的な暴力の場面と静的なシーンの対比構造を際立たせ、行為に静謐な哀切を付与する「倫理的緩衝材」として機能する。
  • 絵画の象徴的機能: 劇中に挿入される堀部による絵画の連作は、西の行動原理と対をなす象徴的機能を担っている。特に「桜の花や、旧日本軍人を思わせる制服姿のモチーフ」の反復、そして「赤文字で『自決』と記された具象的な絵画」の存在は、西がかつての「公の大義」の残滓を背景に、「極私的な愛」を究極の目的として選び、最終的に自己完結的な「死の美学」へと至る過程を予告している。また、頭部が花卉、胴体が動物の異形の生物を描いた絵画群は4、西が体験した暴力による身体的変容と、精神的な美学的昇華の試みを対比的に示唆し、作品全体に流れる「滅びの美学」を補強する。

西と妻の最後の旅は、公的規範や現実から完全に離脱する「極私的な駆け落ち」の様相を呈する。海岸での拳銃自殺という結末は、社会的な責任を引き受けることを拒否し、「生と死の美学」という閉じたロジックの中で愛を完結させるという、「美学的逃避の暴走」であり、システムへの関与を諦めた「諦念の美」の極致であった。

3. 「孤立した大義」の論理と現代的再生産

西の「極私的な愛の倫理」が持つ批評的価値は、その論理構造が現代の情報社会において「自己完結型制裁」として再生産されている点にある。

西の倫理は、哲学者エマニュエル・レヴィナスが提示した「他者への責任」の概念を、極度に排他的に歪曲した形として捉えられる。彼の責任は「妻」という極めて限定された他者にのみ特化し、その義務遂行のために、無関係な「第三者」(銀行員、ヤクザ)への暴力を正当化する。これは、公的倫理の領域から完全に逸脱した「倫理の排他性」である。

この「私的倫理の絶対化」の構造は、2025年現在、公的司法を迂回し、「自分たちの正義」を完遂しようとする「自己完結型制裁(キャンセル・カルチャー)」の論理と強く共振する。デジタル空間における集団的な私刑は、西の「個人による物理的な暴力」とは形態こそ違えど、公的規範への絶望を前提とし、自らの倫理を絶対化する中で、批判対象のみならず中立的な「第三者」をも攻撃対象とする論理において酷似している5。西の破滅的な「孤立した大義」は、特定の個人の悲劇に留まらず、公的規範の衰退が不可逆的となった現代社会において、「システムに頼れない個人が、自らの倫理的責任をいかに引き受けるか」という、普遍的かつ切実な倫理的状況の原型(プロトタイプ)を提示していたのである。

結論

西が体現したこの孤立し、内面化された私的倫理は、次なる時代において、公的システムの欺瞞と社会的な境界線の中で、若者が自己のアイデンティティを賭けてその規範から離脱しようとする、より能動的な「逃走の倫理」へと変貌する。次回は、その倫理的な葛藤が、青春映画という形式を通して、いかに「規範なき世界」における自己の再定義を試みるのかを探求する。

  1. 前回記事「『火垂るの墓』:特権意識の崩壊と「構造的剥奪」の残酷な論理」では、公的システムの崩壊が清太の極私的な愛の試みを無力化させた限界を指摘した。本稿は、その無力化を経験した次世代の主体が、いかにして暴力的手段をもってその限界を超克し、愛を絶対化する新たな倫理的行動原理を構築するかに焦点を移す。
  2. 日本の完全失業率は1991年の2.1%から、作品公開翌年の1998年には4.1%へと悪化。これと並行して非正規雇用者数も90年代半ば以降に大きく増加し、この時期に「構造改革」や「自助努力」といった政府メッセージが浸透し、自己責任論が強固になる社会的土壌を形成した。
  3. 1997年の日本映画の躍進: この年は、北野武の『HANA-BI』に加え、今村昌平、河瀨直美といった他の世代や若手の作家たちがヴェネチアやカンヌなどの国際的な主要な賞を獲得した。この時代の作品群は、黒沢清の『CURE』(同年に公開された)が描いた空虚な殺意の蔓延(本連載より以前の論考「『CURE』:空虚な殺意と「構造的疲弊」のウィルス」)のように、従来の様式美ではなく「現代社会の病理」を厳しく見つめることで国際的な批評性を獲得した。
  4. この種の描写は、しばしば「異形」や「変容」を主題とする。
  5. キャンセル・カルチャーは、公的システムが裁かない倫理的瑕疵を「私的に制裁」する機能を持つ。これは、社会的問題の解決を促し、公的な責任感を高めるといったポジティブな効果を産み出す一方で、デュー・プロセス(適正手続き)の欠如、制裁の過剰性(比例原則の崩壊)、集団ヒステリーといった深刻な倫理的リスクを内包している。
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