時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『ジョゼと虎と魚たち』:閉鎖系の熱死と「深海歩行術」の自律

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理2000年代ノベル

身体的呪いを抱えたまま、この惑星の重力下でいかに歩行を継続するか。前回の考察において、近代化の業としての呪いを排除せず、共生するための生存プロトコルを『もののけ姫』のアシタカに見出した。しかし、その「呪い」が抽象的な運命ではなく、具体的な肉体の移動制限として、あるいは他者の労働力を必要とする物理的な「重力」として現出したとき、生命はさらなる倫理的決断を迫られる。

批評家たちは笑うかもしれない。肉体の痛みを熱力学に還元するのは理論の植民地主義だと。あるいは、福祉機器の導入をサイバーパンク的なハックと呼ぶのは、現実の過酷さを無視したカテゴリー・ミステイクであると。だが、あえて言おう。その誤読こそが、システムに飼い慣らされないための唯一の生存戦略なのだと。

【散逸の気泡 琥珀の環世界】
作品データ
タイトル:ジョゼと虎と魚たち
公開:2003年12月13日
原作:田辺聖子(小説『ジョゼと虎と魚たち』)
監督:犬童一心
主要スタッフ:渡辺あや(脚本)、蔦井孝洋(撮影)、くるり(音楽)
制作:アスミック・エース
製作:アスミック・エース、IMJエンタテインメント ほか

序論

本稿は、全5回にわたる連載企画【「脱出」としての倫理:計算と制約の外部へ向かう「自律的な生の野生」の起動】の第3回である。前回は、不可避な災厄を内装化し、その痛みと共に生きるプロトコルを『もののけ姫』のアシタカの腕に宿る呪いから分析した。本稿ではその身体的受容を、技術と意志を介した自律的な生の野生へと昇華させるプロセスを、実写版『ジョゼと虎と魚たち』から読み解く。これは1月の月間テーマであるシステムの重力からの脱出を、2003年という特異な結節点において具体化する試みだ。

2003年に公開された実写映画『ジョゼと虎と魚たち』は、現在の視点から見れば、愛ではなく持続不可能なシステムの重力への埋没であり、搾取の構図として立ち上がる。かつて純愛の象徴とされた背負うという行為は、個人の肉体リソースを公共インフラの代替として消費する、極めて危うい平衡の上に成り立っているのだ。

1. 重力の再定義:映画が隠蔽した腐食と熱力学的な搾取

2000年代初頭の映画空間において、身体的制約を持つ他者を背負う行為は、無条件に自己犠牲的な献身として称揚された。しかし、AIによる自動化と労働の分解が進んだ現代社会において、この関係性をロマンティシズムではなく物理学的なエネルギー交換の視座から解剖せねばならない。映画はこの点を美化というフィルターで隠蔽した。スクリーンに映し出される光溢れる青春の裏側に横たわる、冷徹な物理法則を暴き出す。

1.1. 肉体インフラの限界:排熱と関節の悲鳴

恒夫がジョゼを背負い、坂道を登る際、映画のフレームから追いやられたのは労働の質感だ。真に見るべきは、恒夫の首筋に張り付き、変色したTシャツの、あの不快な湿り気である。それは単なる発汗ではなく、他者一人分の質量を重力に抗って持ち上げるために支払われた、膨大なカロリーの排熱処理である。彼の関節が発する微細な軋み、椎間板にかかる圧縮応力、酸素供給が追いつかずに浅くなる呼吸のリズム。これらは愛の証左などではなく、限界を迎えた生体エンジンの悲鳴だ。

エルヴィン・シュレーディンガーは生命の本質を負のエントロピー1を食べて生きるものと定義した。初期ジョゼの生存戦略は、恒夫という他者の負のエントロピーを直接的に捕食し、自らの移動能力へ変換する熱力学的な搾取に他ならない。恒夫の疲労は、ジョゼの秩序維持と等価交換されている。この残酷な数式を無視して純愛を語ることは、人間の肉体が持つ有限性への無知である。映画が映さなかったのは、この交換効率の悪さそのものがもたらす、システムの破綻への予兆である。

1.2. 鉄の酸化と乳母車という監獄

ジョゼが乗る乳母車は、映画ではノスタルジックな小道具だが、現実には強烈な鉄の匂いを発していたはずだ。塗装の剥げ落ちた箇所に浮く赤茶けた錆の粒子。それは単なる古さの記号ではなく、金属が酸素と結合し、ゆっくりと崩壊していく酸化という不可逆な時間の可視化である。車輪が発する耳障りな金属音は、潤滑を失った機械部品が互いを削り合う断末魔だ。

ジョゼはその崩壊しかけた鉄の塊の中に、自らの柔らかい肉体を押し込めている。硬い底板が彼女の骨盤に伝える振動、隙間風が運ぶ路上の排気ガスと埃。これらは献身という美しい言葉で覆い隠された、過酷な身体的拘束の現実に他ならない。画面から伝わるべきだったこの物理的な重力と金属の腐食臭こそが、二人の関係の本質が愛ではなく、錆びついたシステムの中での一方的な消耗戦であることを証明している。映画は映像の清潔さを保つために、この物質的な不快感を意図的に消臭した。しかし、その死角にこそ、彼女が直面していた実存の痛みが沈殿している。

1.3. 閉鎖系システムの熱死と皮膚の薄さ

二人が肌を重ねるシーンにおいて、映画が映した以上にジョゼの皮膚は薄く、脆く、青白い静脈が透けて見えるほど透明度が高かったはずだ。運動機能を持たない彼女の肉体は、自ら熱を生み出す基礎代謝において圧倒的に劣る。彼女の冷たい指先が恒夫の背中を這うとき、それは愛撫であると同時に、自らの生存を支える宿主の実在を確認し、その過剰な熱を吸い取って自らの深海のような身体を温めるセンシング行為でもあった。

イリヤ・プリゴジンが提唱した散逸構造論2を援用すれば、生命が秩序を保つには外部とのエネルギー代謝が不可欠である。外部からの供給を持たない閉鎖系でのリソース共有は、必ず熱死へと至る。皮膚一枚を隔てた熱伝導。恒夫という単一の熱源に依存したジョゼの系は、構造的な誤謬により崩壊を約束されていたのだ。彼が最終的に逃走した事実は、感情の変節ではなく、物理限界に達したシステムが停止した、ただそれだけの必然的帰結である。

2. 水族館とラブホテル:虚構による真実のハック

物語の中盤、二人は水族館を訪れるが、あいにくの休館日で中に入ることはできない。映画的には不運な出来事として処理されるが、これはジョゼという生命体にとっての決定的な拒絶と救済の儀式である。

2.1. 水族館という閉ざされた本物の野生

水族館とは、管理された本物の海を切り取り、展示するシステムである。もしジョゼがそこに入り、優雅に泳ぐ魚たちを見てしまったなら、彼女は自らを閉じ込められた悲劇の生物として再確認するに留まっただろう。だが、門は閉ざされた。

ヤコブ・フォン・ユクスキュルの環世界3概念を借りれば、彼女はこの時、システムが提供する正規の入り口を失ったことで、自分だけの海を構築せねば状況に追い込まれたのだ。彼女は、他者が管理する本物の野生へのアクセスを断たれることで、逆説的に自律した知性の起動を余儀なくされる。水族館の閉ざされた扉は、彼女をパターナリズムの観賞用ケースから叩き出し、荒れ狂う記号の海へと突き放す。

2.2. ラブホテルの魚:シミュラークルによる再定義

水族館を拒絶された二人が辿り着くのは、安価なラブホテルである。そこには貝殻の形のベッドがあり、壁には魚のイルミネーションが投影される。それは本物の海の代用品ですらない、キッチュで薄汚れた虚構の極みだ。しかし、ジョゼはここで、自らの存在論を決定づける独白を行う。

「そこは、真っ暗で、光がなくて、音もなくて。……あたしは、一番深い海の底から、這い上がってきたんや」

この時、彼女の背後の壁で泳いでいるのは、ただの光の粒子に過ぎない。本物の魚も、本物の海水もない。だが、ジョゼはこの偽物の空間において、自らの過去を深海という神話的領域へと再定義することに成功する。これはジャン・ボードリヤールが唱えたシミュラークル4による現実の乗っ取りである。彼女は本物の海を必要としない。偽物の光の中で、自らの実存を物語化する力を手に入れたのだ。恒夫という肉体リソースがなくても、自らの知性さえあれば、いかなる場所も自分の海へとテラフォーミングできる。

2.3. パターナリズムからの最終離脱

祖母や初期の恒夫が見せた「隠す/守る」という愛情は、ミシェル・フーコーが規律訓練的な権力構造5として分析した、弱者を管理可能な状態に置く善意のパターナリズムであった。ジョゼが車椅子を拒絶し、恒夫の背中に固執した段階では、彼女はこのパターナリズムという檻の中で、搾取することでしか生きられない飼い慣らされた怪物に過ぎなかった。

この檻の境界線を、キッツい大阪の手触りをもって観客に突きつけたのが、恒夫の友人・幸治を演じた新井浩文という肉体である6。彼は、ジョゼを「あんなん」と呼び、恒夫の献身を冷ややかに笑うことで、福祉的な物語の欺瞞を暴いてみせた。

しかし、ラブホテルの暗闇の中で自らを魚と定義した瞬間、彼女はこの管理システムから離脱する。もはや彼女は、恒夫の背中の温もりを必要とする乳飲み子ではない。暗い海底を独りで泳ぎ切った、冷徹な捕食者としての自意識を獲得したのである。この精神的な自律こそが、次章で展開される物理的な自律への、不可欠なプロトコルとなる。

3. 深海の歩行術:自律した知による再野生化

依存という名の搾取を卒業し、ジョゼが最後に選択した電動車椅子。それは福祉的な代行品としての道具ではなく、自律した知性が身体的重力をハックし、推進力へと変換するための独自の技術的形式の獲得である。

3.1. 宇宙技芸としての身体拡張

ジョイスティックを倒す指先の微細な入力が、巨大なモーターの回転へと変換され、彼女の身体を前方へと運ぶ。彼女の皮膚は薄く、静脈が透けるほど脆いが、その指先は今や機械の出力を掌握している。本来「保護されるための椅子」を、街を疾走し、誰の背中も借りずに虎と対峙するための戦車として運用すること。

このカテゴリーそのものを破壊する実践こそが、ユク・ホイの言う宇宙技芸7的転回である。彼女は車椅子に乗っているのではない。車椅子を自らの筋肉の一部として内装化し、地上の重力圏を魚のように泳ぎ始めたのだ。ダナ・ハラウェイが『サイボーグ宣言』8で唱えたように、機械と肉体の境界を曖昧にすることで、彼女は家父長制的な依存の連鎖から決定的に脱出したのである。

3.2. 泥臭い闘争としての魚焼き

ラストシーン、ジョゼは一人で魚を焼く。映画はこれを自立した女性の静かな日常として美しくまとめるが、その実態はヒリつくようなサバイバルだ。焼き網の上で魚が爆ぜる音、立ち上る煙、無造作に身をひっくり返す手つき。ケアされる対象であった彼女が、自らの手で熱を生み出し、有機物を摂取し、エネルギーを自律的に供給する。

かつてラブホテルで投影されていた記号としての魚は、今や物理的な質量を持ち、脂を滴らせる生へと回帰した。失敗すれば火傷を負い、焦がせば飢える。このリスクの引き受けこそが、自律の証明である。マルクス・ガブリエルの新実在論9によれば、一貫した世界は存在せず、多元的な意味の場が重なり合って存在する。ジョゼは恋愛という唯一の世界の崩壊後、たとえそれがどれほど小さく、不安定なものであろうとも、自らの規律によって統治する自律の砦としてのキッチンを確立したのだ。

3.3. システムへの回収可能性を越えた加速:虎の目線への到達

もちろん、この自律の物語さえも、やがては現代の資本主義システムに回収される。障害者の自立は感動的なコンテンツとして消費され、電動車椅子は商品カタログの一部となる。だが、それでもなお、彼女がアクセルを踏み込んだあの一瞬の加速は、システムがタグ付けを完了するよりも速い。エマニュエル・レヴィナスが説いた他者の無限10のように、他者は私の理解や同情を越えた存在として現れるべきだ。

かつての彼女にとって、動物園の「虎」は自分を食い散らかす世界の暴力の象徴であり、乳母車の底から見上げるしかなかった圧倒的な高みの存在であった。しかし、自律した知性をもって電動車椅子のジョイスティックを倒す今の彼女は、もはや「虎を恐れる獲物」ではない。路面を捉えるタイヤの振動を感じながら加速する彼女の視点は、虎の双眸と同じ高さへとせり上がり、その瞳を真っ直ぐに射貫いている。この「虎の目線」の獲得こそが、不自由という名の自由をハックした生命が到達する、再野生化の極北である。

結論:加速する欲望と新たな錨

ジョゼは、自らの重力を推進力へと変換し、誰にも飼い慣らされない野生を確立した。それは一過性の成功かもしれないし、脆弱な誇大広告かもしれない。だが、システムが全てを回収し尽くすその直前、分類不能なノイズとして世界を駆け抜けるその一瞬の閃光にこそ、2026年の私たちが希求すべき生の肌触りがある。彼女はハッピーエンドに到達したのではない。終わりのないサバイバルの荒野へと、意気揚々と出撃したのだ。

肉体的な重力を克服した生命が次に挑むのは、虚構によって構築された別の重力圏だ。貨幣が、あるいは偽造された情熱が、実体を超えて月のように美しく輝き始める場所。そこでは、自律した知性がさらなる生存戦略として、真実と虚構の境界をハックしていくことになる。私たちは絶望的な回収のループを知りながら、それでもなお、そのループの裂け目へとダイブするのだ。

  1. Erwin Schrödinger, What is Life?, Cambridge University Press, 1944. 日本語訳:『生命とは何か』(岡小天、鎮目恭夫訳、岩波文庫、2008年)。物理学者シュレーディンガーが、生命体を「負のエントロピー(ネゲントロピー)」を外部から摂取することで、自己の内部で増大し続ける無秩序(エントロピー)を排出し、高度な秩序を維持する非平衡開かれた系として定義した記念碑的著作。
  2. Ilya Prigogine and Isabelle Stengers, La Nouvelle Alliance: Métamorphose de la science, Gallimard, 1979. 日本語訳:イリヤ・プリゴジン、イザベル・スタンジェール『混沌からの秩序』(伏見康治ほか訳、みすず書房、1987年/新装版、2025年)。平衡状態から遠く離れた非平衡状態で、外部とエネルギーや物質を絶えず交換することによって自己組織化される動的な構造のこと。プリゴジンはこの理論により1977年にノーベル化学賞を受賞した。生命体が単なる物質の塊ではなく、流れの中で秩序を保つ存在であることを科学的に記述する。
  3. Jakob von Uexküll, Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen, Springer, 1934. 日本語訳:ヤコブ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫、2005年)。全ての生物は客観的な一つの世界を共有しているのではなく、それぞれの種が持つ感覚器官や作用器官によって選択・構築された、主体ごとに固有の環境(環世界:Umwelt)を生きているという概念。ジョゼにとっての世界は、健常者が歩行する世界とは物理的・意味的に全く異なる法則で構成されていることを示唆する。
  4. Jean Baudrillard, Simulacres et Simulation, Éditions Galilée, 1981. 日本語訳:ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳、法政大学出版局、1984年)。オリジナルのないコピー、あるいは現実よりも現実味を帯びた「ハイパーリアル(超現実)」を指す概念。ジョゼは本物の魚(オリジナル)を見ることができなかった代わりに、投影された光の魚(コピー)を自らの真実として内装化した。
  5. Michel Foucault, Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard, 1975. 日本語訳:ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』(渡辺守章訳、新潮社、1977年/田村俶訳、新潮社〈新装版〉、2020年)。権力が、暴力などの直接的な抑圧ではなく、監視や空間の区分け、規律(ディシプリン)を通じて、個人の肉体を特定の従順な形へと作り変えていくプロセスを分析した。福祉という善意の枠組みが、いかに弱者を「管理されるべき受動的な肉体」へと規定するかという問題に直結する。
  6. 本作において幸治を演じた俳優・新井浩文については、以前の『GO』および『告白』の論考でも触れた通り、2018年の強制性交事件により実刑判決を受け、長らく社会的な重力によって圧殺されていた。しかし、2025年12月28日の舞台『日本対俺2』での復帰、およびその翌日に投稿されたnote「謝罪」(2025年12月29日)における「前科があっても大体(の職業には)戻れる」という宣言は、システムの構築した「排除」や「更生」の論理を根底からハックするものであった。一度は完全に抹殺された肉体が、自律的なメディアを介して、求める者がいる限り戻るという不敵な生存戦略を起動させる姿は、本稿が定義する「生の野生」の、最も毒性が強く危うい発露である。彼への激しい指弾と、代替不可能な実存への渇望。この倫理的摩擦こそが、規範からの逸脱が単なる物語上のフィクションに留まらないという、現在進行形の問いを我々に突きつけている。
  7. Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Urbanomic, 2016. 日本語訳:ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(伊勢康平訳、ゲンロン、2022年)。技術(テクノロジー)を西欧近代的な「道具」として捉えるのではなく、宇宙的な秩序や道徳、身体感覚と統合された独自の技芸(Cosmotechnics)として再定義する試み。ジョゼが電動車椅子という西洋技術を、自らの生の野生を駆動する不可分な身体拡張として再構成した営みを指す。
  8. Donna Haraway, “A Cyborg Manifesto,” in Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, Routledge, 1991. 日本語訳:ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』(高橋さきの訳、青土社、2000年)。社会的に構築された「女/男」「自然/文化」「肉体/機械」といった二元論的な境界を、科学技術との融合(サイボーグ化)によって突破し、新たなアイデンティティや政治の可能性を模索したフェミニズム批評の重要論文。
  9. Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt, Ullstein Buchverlage, 2013. 日本語訳:マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ、2018年)。「世界」という単一の場は存在せず、無数の「意味の場」が重なり合って存在するという哲学。ジョゼは恋愛という唯一の意味の場が崩壊した後、キッチンという独自の場において新たな存在理由を構築した。
  10. Emmanuel Levinas, Totalité et Infini: Essai sur l’extériorité, Martinus Nijhoff, 1961. 日本語訳:エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』(上・下、熊野純彦訳、岩波文庫、2005-2006年)。他者を、自分の知識や概念で捉えきれる存在(対象)として扱うのではなく、自分の理解を常に越えていく、絶対的な他性を持つ「顔」として出会うことの倫理を説いた。ジョゼは、恒夫や社会が抱く「哀れな障害者」という理解を拒絶し、捉えがたい存在として加速する。
プロフィール
トキクロ

「時クロニクル」主宰。氷河期世代の視座から、1980年代〜2020年代のアニメ・マンガ・映画に刻まれた文化的記憶を分析し、その制度・形式・思想の層を再編するカルチャーワーカー。五色の年代ローテーションに沿って、各時代の記憶を原石として位置づけ、批評的な研磨を通じて一つの構造へと結晶化する。三か月単位のシーズンと週次のテーマを軸に、失われた三十年に沈殿した世代的条件を再文脈化し、文化資本に基づく知的実践として時の構造を読み解く。

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