時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『家族ゲーム』:形式的機能と「生存の倫理」の起源

映画1980年代生存と生命の倫理

1980年代の映画『家族ゲーム』を、現代の「機能的倫理」の構造的起源として分析する。高度経済成長下で肥大化した「一億総中流」という形式的規範(体裁)が、家族の実質的な機能不全を隠蔽した構造を、パーソンズの機能論とルーマンのシステム論を用いて解読。過剰な中流体裁の維持こそが、家族システム破綻の直接原因。この形式の崩壊こそが、現代の「生存のための機能的倫理」を要請した構造的起源。

【形式の牢獄と、無慈悲な食卓】
作品データ
タイトル:家族ゲーム
公開:1983年6月4日
原作:本間洋平(小説『家族ゲーム』)
監督:森田芳光
主要スタッフ:森田芳光(脚本)、前田米造(撮影)、宮島まどか(音楽)
制作:にっかつ撮影所、日本アート・シアター・ギルド

序論:1980年代の家庭崩壊は、現代の機能的倫理の構造的起源か?

現代の日本社会は、経済的な不確実性と既存の社会制度の疲弊に直面し、特に氷河期世代が直面した厳しい現実を踏まえるならば、[前回の論考]で詳しく扱った「機能的倫理」(血縁によらない生存のための機能的な家族、例:映画『万引き家族』)が必要とされる時代に突入したと言える1。私たちがいま遡及的に問うべきは、その倫理の構造的起源だ。高度経済成長の頂点に位置し、「一億総中流」という形式的規範が最も強固だった1980年代の家庭は、いかなる病理を内包していたのか。森田芳光の映画『家族ゲーム』(1983年)は、その問いに対する鮮烈な回答であり、形式的規範(「中流」という体裁)と実質的な機能不全の乖離が、いかに現代の構造的病理のプロトタイプとなったかを考察する。当時の家庭は、外部に対する「形式的な機能」を死守することで、内部の実質的な機能不全を隠蔽する、特異な「閉じたシステム」として機能していたのである。

1. 家族の機能と形式の乖離:中流規範の特異点

本論考が前提とする「生存のための機能的倫理」の起源は、戦後日本の近代家族の解体プロセスそのものに深く根差す2。だが、機能不全が顕在化せず、形式的規範が極点まで肥大化した1980年代こそが、その後の構造的な転換点として重要性を持つ。この時代、家族は「何らかの目的(機能)」を達成するために存在するという前提に立ちながら、その「形式(規範・体裁)」と「実質(機能の遂行)」の乖離が修復不可能なレベルに達した特異点として位置づけられる。

1.1. パーソンズ:形式的な家族の機能と実質の乖離

社会学者のタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)は、近代核家族の中心的機能として「子どもの社会化(socialization)」と「パーソナリティの安定化(stabilization of adult personalities)」を挙げた3。沼田家においては、これらの機能は形式的にしか果たされていない。父は経済的提供者という役割を形式的に遂行し、母は家事という役割を形式的にこなすが、精神的な交流は完全に欠落している。子どもの成績という「客観的数値」は、社会化の成果を示す形式的な指標と見なされ、実質的な情動的交流は空洞化した。つまり、この形式的機能の遂行こそが、機能不全を隠蔽するための「アリバイ」として機能した。

1.2. ルーマン:中流規範という「閉じたシステム」の維持

社会学者のニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann)のシステム論を援用するならば、沼田家は、外部(世間体)との関係を遮断し、内部の機能不全を隠蔽するために「閉じたシステム(closed system)」として構成されている4。システムが中流という規範を維持するために行うのは、家庭教師という「外部の異物」の導入を「成績向上」という限定されたアウトプットに閉じ込めることだ。この行為は、システム(家庭)の「自己組織性(autopoiesis)」を維持しようとする試みであり、家庭内コミュニケーションの不全を、形式的な結果で糊塗しようとする、情報的に閉鎖されたシステムの様態を示す。

2. 80年代形式主義の客観的根拠:形式的価値の経済学的飽和

1980年代の「形式的な機能」の肥大化は、単なる映画批評に留まらない。それは、当時の社会経済構造によって駆動された客観的な現象だった5

2.1. 消費データが示す「中流体裁」への過剰投資

1980年代は「一億総中流」が国民意識の頂点に達した時期であり、この中流の「体裁」を維持するために、家計は過剰な形式的投資を行った。具体的には、住宅ローンによるマイホーム取得と、教育費の対家計支出の増大が挙げられる6。特に教育費は、子どもの「社会的地位の再生産」という形式的な機能の遂行を、家計消費の最優先事項とする構造を生んだ。この金銭的な投資は、家族の経済的機能を形式的に遂行していることの証明であり、精神的な交流の不足を補う手段となった。

2.2. 社会化の指標としての「成績=偏差値」の絶対化

パーソンズの言う「社会化」の成果は、家庭内での情動的な涵養ではなく、偏差値という客観的な数値によってのみ測定されるようになった。この「成績絶対化」は、家族の価値判断を外部の競争原理に完全に委ねる形式主義の極致だ。偏差値は、家族が外部に対して中流としての優秀性を簡潔に示し、内部の複雑な機能不全を糊塗する明確なアリバイとして機能した。

3. 暴力的な介入が必要となったシステムの空洞化

森田の演出は、中流家庭の「形式的な体裁」が、いかに実質的な機能不全を隠蔽し、最終的に外部からの暴力的な介入を要請するに至ったかを描き出す。

3.1. コミュニケーションの不全と「体裁」という空虚な形式

映画における食事のシーンは、家族が「共に在ることの形式」を維持するための装置としてのみ機能する。横並びの家族配置、不自然に繰り返される形式的な会話は、家族間の「非‐対話的(non-dialogical)」なコミュニケーションの不全を象徴する。家族は、互いの精神的なパーソナリティの安定化という機能を放棄し、「中流家庭の体裁」という空虚な形式の維持にのみリソースを集中する。

3.2. 家庭教師の「暴力性」が露呈させたシステム内部の破綻

家庭教師の存在は、システム内では解決不可能な機能不全(成績不振=社会化の失敗)に対し、「外部からの暴力的な操作」によってしか、システム(家族)が「目的(成績向上)」を達成できない状態にあることを示す。この暴力的な介入は、沼田家が自律的な家族機能を完全に喪失し、外部の力によって強制的に体裁を繕われているという、システム内部の徹底的な破綻を逆説的に証明する。

※1980年代の同時代作品である石井聰亙(現・岳龍)の『逆噴射家族』(1984年)も、規範的な形式(マイホーム)の維持が不可能になり、内部の暴力性によってシステムが破綻する家族の病理を描いた系譜にある。

3.3. 松田優作:「形式としての昭和」の終焉とアクターの象徴性

家庭教師を演じた松田優作の存在は、この形式の崩壊を象徴的に強化する。彼が体現した「昭和」的なマッチョイズムや暴力性は、映画内で形式的な中流家族を破壊する「異物」として機能し、1989年の彼の死とともに、「形式」としての強靭な男性的規範の終焉を告げた7。つまり、『家族ゲーム』は、松田優作を通して、1980年代に「形式的な機能」そのものが、そのアクターとともに歴史的に終焉を迎えたことを示唆しているのである。

4. 形式の残骸は、いかに「生存の倫理」を要請したか

家族の機能不全の萌芽は戦後日本の近代化に遡るが、中流規範の形式的機能が最も強固であった1980年代にその隠蔽の限界が露呈したことが、構造的な転換点となった。

4.1. 現代の「機能的倫理」の多角的な定義

現代の「機能的倫理」は、血縁や形式に依らない、「生存」と「共生」という実質的な機能を追求する共同体の必要性を示す。これは、単なる感情的な連帯ではなく、シェアハウス、NPO活動、オンラインコミュニティなど、崩壊した「形式的機能」が残した社会的な「機能的空白」を埋めるための自助共助の要請として捉えるべきだ8。特に、1980年代に形式維持の負荷を集中して担った母親の疲弊は、現代の女性の「脱家族化」の起源にも接続するジェンダー的な論点を含んでいる。

4.2. 形式の崩壊が残した「機能的空白」の克服としての現代倫理

1980年代に崩壊した「形式的な機能」の残骸は、その後の「失われた30年」を経て、実質的な「生存」を担保するための倫理を社会全体に要請した。ルーマン的な閉じたシステムが、現代のデジタル化の波と「外部監視(External Monitoring)」によって「体裁」という形式が効力を持たなくなったことで9、実存的な機能を追求する機能的倫理が、必然的な帰結として位置づけられる。

結論:形式的規範の終焉と、現代に求められる倫理

本論考は、『家族ゲーム』が描いた1980年代の核家族が、いかに中流という形式的な規範の維持に固執し、その裏側で実質的な家族機能の空洞化を極限まで進めていたかを、パーソンズとルーマンの視点から分析した。形式的規範の極大化は、過剰な経済的投資(教育費)によって補強され、結果として外部の暴力的な介入によってしか維持できないシステムを構築した。

この1980年代に明確になった「形式の破綻」こそが、その後の日本社会が直面する構造的な病理のプロトタイプであり、現代の「機能的倫理」を要請した歴史的な起点であると結論づける。血縁という形式に頼れなくなった現代社会において、私たちは、「生存」と「共生」という実質的な機能に基づいて共同体を再構築し、過去の形式主義が残した「機能的空白」を埋めていく必要がある。次なる論考では、この家族レベルでの「形式の崩壊」が、より広範な組織や集団の機能不全へとどのように伝播し、新たな集団倫理の形成へと繋がったのかを考察する。

  1. 現代の「機能的倫理」に関する議論は、2000年代以降の家族社会学における血縁主義の相対化、および格差社会の固定化に対する批評的反応として活発化している。(参照:先行記事『万引き家族』:機能的倫理と「血縁を超えたケアの再構築」
  2. 日本における近代家族の解体プロセスは、戦後の民法改正(1947年)と高度経済成長期の核家族化によって加速した。1980年代はその最終局面、すなわち形式の極大化と実質の空洞化の時期として捉えられる。
  3. T. パーソンズ、R. F. ベールズ 著、橋爪貞雄 他 訳『家族: 核家族と子どもの社会化』(黎明書房)を参照。本稿では、同書に示された家族機能の古典的な定義(子どもの社会化、パーソナリティの安定化)が、1980年代の日本では形式的に履行されていた点を指摘する。
  4. N. ルーマン 著、馬場靖雄 訳『社会システム 上: 或る普遍的理論の要綱』(勁草書房)を参照。同書に示された、システム論的な家族の定義と、環境に対する情報的な閉鎖性(informationelle Geschlossenheit)の概念を参照。本稿では、中流規範がシステムの境界設定に用いられたと解釈する。
  5. 1980年代の家計調査報告に見られる、教育費や住宅費への支出構造の変化、および貯蓄率の動向は、「中流体裁」の維持が経済的優先事項であったことを裏付ける客観的なデータとなる。
  6. 1980年代のマイホーム取得率は高止まりし、教育熱心な専業主婦の増加(「教育ママ」像の定着)と並行して、私塾・学習塾への支出が顕著に増加した。
  7. 松田優作の死(1989年)が、昭和末期という時代と重なることは、彼が体現したアクター性が、特定の「形式」の終焉を告げる象徴的意義を持つという批評的解釈を可能にする。
  8. 現代の「機能的倫理」は、単なる家族の代替ではなく、コミュニティ、プラットフォームなど、多様な社会的集団における「機能的連帯」として広範に議論されている
  9. 21世紀におけるインターネットとSNSの普及は、家族の内部情報を外部に露呈させ、従来の「世間体」という形式による隠蔽を困難にし、ルーマン的な「閉じたシステム」の維持を不可能にした。
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