あの日の自転車の二人乗りが、なぜ今も立ち止まらせるのか。それは、失われた90年代の若者の物語が、現代社会の「構造的敗北」を映す鏡だからである。合理的な成功のシステムが決定的に機能不全に陥ったとき、人は何を拠り所にして生きるのか? 本稿は、単なる青春映画として語られがちな北野武の『キッズ・リターン』を、就職氷河期の厳然たるデータと社会思想のレンズで再読する。「居場所」を剥奪された者が、暴力と逸脱を通して自力で倫理的座標を「自己調達」する、その絶望的で熱狂的なプロセスを追うことで、自己責任論を超えた「敗北の倫理」の原型を発見する。
序論
本批評企画は、【理性の最果て:システム崩壊後の『生の強度』と『非合理な呪縛』の倫理学』】という大テーマに焦点を当てた全5回連載の一部であり、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追うものである。
冷戦終結後、歴史の勝利者となったはずの資本主義システムは、1990年代の日本で突如として機能を停止した。それは単なる景気後退ではない。努力すれば報われるという「社会との契約」の決定的な破棄であった。学校や職場という「合理的システム」のドアが閉ざされたとき、そこから零れ落ちた若者たちは、どこに「生きる価値」を見出したのか? 彼らが選んだのは、ボクシングや極道という、社会規範から見れば全く非合理な「逸脱」の道だった。
今回の論考は、この構造的な喪失を「敗北の倫理(The Ethics of Defeat)」として再定義する。北野武監督の映画『キッズ・リターン』(1996年)を道標とし、バブル崩壊後の日本社会が排出した若者たちの非合理な行動様式を、その絶望的なまでの生存戦略として解剖する。
[前回の論考]では、『じゃりン子チエ』に描かれた、国家的な大義や経済システムとは無縁な「下町の生活力」というミクロな生存の強度を定義した1。そのタフな共同体(ミクロコスモス)が示す「生きる」ことへの根源的な肯定に対し、本稿で扱う『キッズ・リターン』は、共同体の温もりを失い、社会のシステムから「居場所」という規範を否定された個人の「逸脱(Aberration)」を主題とする。この「逸脱」の物語は、後に発表された『HANA-BI』2で描かれた「公的倫理の断絶」の萌芽を既に内包している。本稿は、彼らの「敗北」という非合理な駆動原理から、システム崩壊後の個人が自己の倫理的座標をいかにして模索するのかを分析する。
1. システムと逸脱:構造的な排除と閉ざされた扉
1990年代中盤、日本社会を覆ったのは単なる不景気ではなく、戦後民主主義が約束していた「努力と報酬の契約」の破棄だった。ここでは、若者たちが直面した不可避な「排除」のメカニズムを、客観的なデータと社会学的視座から検証する。
1.1. バブル崩壊後の「凍てついた社会」というシステム
1990年代は、日本の「終身雇用」や「相互扶助」といった旧来の共同体的な規範が、経済の停滞とともに機能不全を起こした時代だ。この時期に社会に出た世代、いわゆる「就職氷河期世代」が直面したのは、個人の資質以前の構造的な壁だった。厚生労働省の統計によれば、バブル期には1.4倍を超えていた有効求人倍率は、90年代後半にかけて急激に下降し、一時は0.5倍を下回る水準まで落ち込んだ。
このデータが示すのは、若者の二人に一人が、物理的に社会への入り口を閉ざされたという厳然たる事実だ。経済学において「傷跡効果(Scarring Effect)」と呼ばれるこの現象は、若年期の失業がその後の生涯賃金や幸福度に永続的な負の影響を与えることを示唆しており、シンジやマサオのような「社会の周縁」に立つ若者に対し、彼らが帰属すべき「居場所(Lieu)」という倫理的規範が、システム側から一方的に撤回されたことを証明している3。
1.2. 液状化する社会と居場所の喪失
社会学者ジグムント・バウマンが「液状化する社会」と呼んだように、かつて強固であった社会構造は溶解し、個人は拠り所を失った。学校教育や労働市場といった合理的なシステムは、もはや育成の場ではなく、効率的に人材を選別し、規格外の人間を「不適合者」として排除するフィルタリング装置として機能した4。この排除のメカニズムこそが、彼らの「逸脱(Aberration)」という非合理な行動、すなわちボクシングやヤクザの世界への参入を、自己の倫理的座標を探すための「代替的な選択」として駆動させたのだ。
1.3. 逸脱への構造的強制
したがって、彼らが学校の窓から人形を吊るし、授業を放棄した行為は、単なる不良少年の反抗ではない。それは、彼らを透明人間のように扱うシステムに対する、無意識下の異議申し立てと解釈できる。合理的な社会への参加資格を剥奪された彼らにとって、残された選択肢は、非合理な世界へ身を投じることでしか「自己の存在」を確認できないという、構造的に強制された逸脱だった。
2. 『生の強度』と非合理:承認欲求の歪んだ発露
システムから弾き出された個人は、いかにして自己の尊厳を保つのか。ここでは、彼らが選んだ「非合理な世界」が持つ危険な魅力と、そこでのみ得られる『生の強度』について、心理学的および社会学的な理論を用いて解剖する。
2.1. 「適応者」との対比とマズローの逆転
彼らが選択したボクシングやヤクザという領域は、一般的な社会規範から見れば「非合理」そのものだ。しかし、システムに順応し、劇中で背景のように描かれるサラリーマンや学生たち(適応者)と比較したとき、シンジとマサオの生は鮮烈な輝きを放っている。アブラハム・マズローの欲求階層説を援用すれば、彼らの状態は「所属と愛の欲求(社会的居場所)」が欠落したまま、最上位の「自己実現の欲求」や「承認欲求」を極端な形で満たそうとする「逆転現象」として説明できる。
社会の「正当性」のシステムから切り離された場所で、彼らは肉体的な痛みや暴力を通して、逆説的に「生の実感」を獲得しようとした。この歪んだ構造こそが、彼らを破滅的な結末へと加速させるエンジンとなる。ここで見られる「生の実感への渇望」は、後に発表された『HANA-BI』の主人公が妻との「私的愛」を完結させるために、社会の法を破るという「自己完結型制裁」へ向かう動機付けの原型とも解釈できる。
2.2. アノミーと革新としての逸脱
社会学者のロバート・マートンが提唱した「アノミー論(緊張理論)」によれば、社会が推奨する「成功」という文化的目標に対し、正当な「手段(就職や進学)」が閉ざされた場合、人々は非合法な手段を用いてでも目標を達成しようとする「革新(Innovation)」という適応形態をとる5。シンジにとってのチャンピオンベルト、マサオにとっての組長の座は、閉ざされた正規ルートの代わりに彼らが選び取った、唯一の「成功の代用品」だった。この行動は、生存のための合理的な経済活動ではないが、「自己の倫理」を確立するための非合理な駆動原理として、彼らを突き動かす必然的な帰結だったのだ。
2.3. 前回のテーマの継承と代償
前回の「経済的貧困と精神的豊かさの交換」というテーマは、本稿では「社会的な地位の喪失と、自己の情熱の追求」へと形を変えて継承される。シンジやマサオは、社会的な成功を失い、経済的な豊かさも得られなかった。しかし、彼らが「逸脱」という非合理な行動を通して追求した「情熱」と、二人乗りした自転車のペダルの重みといった身体的記憶は、システムに回収されない彼ら固有の「精神的な豊かさ」として残る。この豊かさは、社会システムから与えられたものではなく、彼ら自身の選択によって獲得されたものであり、その代償として彼らは「社会からの排斥」を引き受けたのだ6。
3. 敗北の倫理学:自己責任論を超えて
物語は二人の挫折で幕を閉じるが、この「敗北」こそが本作の倫理的な核心だ。現代社会に蔓延する「自己責任論」と対峙し、彼らの失敗が持つ真の意味と、そこから立ち上がる新たな倫理的規範を提示する。
3.1. 「自業自得」論への冷徹な反論
しばしば、シンジやマサオの破滅は「自業自得」であり、若さゆえの愚かさが招いた結果だと断じられる。特に90年代後半から強まった新自由主義的な風潮は、構造的な問題を個人の資質へと還元する「自己責任論」を内面化させた。しかし、本稿の考察主体である「氷河期世代の厳格な視線」から見れば、彼らの逸脱は美化された浪漫でも、単なる愚行でもない。それは、システムが彼らに与えなかった「居場所」という基本的人権を、非合理な手段によって「自己調達」しようとした、極めて切実な「構造的な試み」だ。彼らの失敗は、個人の資質の問題ではなく、バブル崩壊後の社会が若者に対して「合理的な出口」を用意しなかったことの「構造的な帰結」として分析されるべきだ。
3.2. 敗北が確立する「自律の倫理」
『キッズ・リターン』における「敗北」は、単なる結果論的な失敗ではない。それは、システムが要求する「効率性」や「生産性」といった合理的な価値観を拒絶した結果として、彼らが引き受けた「倫理的な代償」だ。彼らは社会的な成功という「虚偽の安定」よりも、自己の『生の強度』を試す「非合理な情熱」を選択し、その代償として敗北を受け入れた。この敗北は、外部のシステムに依存しない「自律的な生のあり方」、すなわち「敗北の倫理」を確立する。それは、外部から見れば厳しい現実への適応力の欠如だが、彼らにとっては、誰の指図も受けずに選び取った「魂の自由」と交換した結果なのだ。
3.3. ラストシーンの再定義と転換点
物語のクライマックスは、シンジとマサオが二人乗りした自転車の上で「まだ始まっちゃいねぇよ」とつぶやく、象徴的なシーンで迎えられる。このセリフは、単なる再生への希望ではない。「システムに内包された成功」を否定し、「非合理な『生の強度』」そのものを肯定する、永遠の循環への宣言だ。
このシーンを彩る久石譲の音楽は、北野の当時の「死」から「生」への焦点を象徴している。後に発表された『HANA-BI』で「倫理的緩衝材」として西の暴力に静謐な哀切を付与した抑制的なピアノとは対照的に、本作で久石が復帰作として選んだのは、ユーロビートをベースとしたリズミックで高揚感のある旋律だった7。
この非合理に「元気な」音楽が、若者たちの決定的な敗北の後に鳴り響くことこそが、本作の倫理的な核心である。敗北の底でなお生命を肯定し続けるその生の駆動原理は、北野のバイク事故後の「復活を危ぶまれた当時の自身への問いかけ」への回答であり、彼らの倫理は、結果としての勝敗ではなく、「逸脱し続ける過程」そのものに存在するのだ。北野自身が「あのエンドロールのために映画があったなあ」8とまで喜んだこの音響的肯定こそが、冷酷な社会に対する最も熱狂的な『生の強度』の宣言なのである。
結論
『キッズ・リターン』は、システムの「機能不全」が「居場所の喪失」という倫理的危機を生み出し、その代償として個人が「敗北の倫理」という非合理な駆動原理を選択せざるを得なかった時代の証言である。彼らの物語は、社会的な成功という合理的な価値観の終焉と、『生の強度』が「逸脱の情熱」そのものに内包されることを証明した。
しかし、この結論は同時に重い問いを残す。もし、肉体的な現実世界(ボクシングや極道)においてすら、システムが個人の「逸脱」を許さず、すべてを管理し尽くしてしまったとしたら? その時、行き場を失った人間の『生の強度』はどこへ向かうのだろうか。
次なる考察は、物理的な現実が閉塞した先に広がる、さらに非合理で、無限の広がりを持つ「意識と夢」の領域へと移行する。テクノロジーと無意識が交錯するその場所で、倫理はどのような変容を遂げるのか。深層心理のパレードが、すぐそこまで迫っている。
- 前回記事「『じゃりン子チエ』:非合理な生存戦略と「システムの影に息づく生の強度」」では、マクロな国家システムとは無関係に機能する大阪の下町共同体の『生の強度』を論じ、経済的貧困と精神的豊かさの交換という倫理的なバランスを主題とした。本稿は、そのタフな共同体を持つことができなかった若者が、冷たい社会でいかに自己の生存倫理を確立しようとするかという論理的な問いを引き継ぐ。↩
- 先行記事「『HANA-BI』:極私的倫理と「自己完結型制裁」の原型」で論じたように、公的倫理の断絶後、主人公が自身の「極私的倫理」と「自己完結型制裁」という暴力的な手段で、妻への「私的愛」を完結させるという、より孤立した倫理的破綻の段階の萌芽を既に内包している。↩
- ここでいう「居場所(Lieu)」は、マルク・オジェが『非-場所』で提唱した、アイデンティティ、関係性、歴史性が構築される「場所」の概念を指す。若者たちは、この規範的「場所」を社会システムから剥奪された。↩
- バウマンの提唱する概念。伝統的な社会構造が崩壊し、個人が自由と引き換えに不安定さと孤独を背負わされる状態を指す。若者は確固たるアイデンティティを形成できず、漂流を余儀なくされる。↩
- マートンの理論において、社会的な規範と個人の欲求の間にズレが生じた状態(アノミー)が、犯罪や逸脱行動の主要因となるとされる。↩
- ジャン=ポール・サルトルの実存主義的な視点、特に「自由の重荷」としての選択と責任の概念を用いて、彼らの逸脱を「自己決定の倫理」として分析する。↩
- 久石譲は当時映画音楽の仕事を休止していたが、本作が2年ぶりの復帰作となった。彼は「若者が主人公なので、音楽は元気なものである必要性」を感じ、ユーロビートやディスコをベースにリズミックな楽曲を手がけた。↩
- 『フィルムメーカーズ2 北野武 TAKESHI KITANO』, キネマ旬報増刊 1998年2月3日号, キネマ旬報社, 1998年, p. 130参照。↩

