映像文化から時代を読む記録|文化的記憶を通して時を解く

『桐島、部活やめるってよ』:カースト瓦解と「身代わりの義体」

映画システムと規範の構造精神と内面の構造2010年代ノベル

本稿では『桐島、部活やめるってよ』における中心の空洞化が招くシステム崩壊の構造と、デバイスを身代わりとした実存の再起動を分析する。スクールカーストという母岩の解体を通じて、2026年のAI社会における個の生存戦略を導き出す試みである。

放課後の校舎という密閉された高圧釜の中で、私たちはかつて、誰のものでもない自分自身の咆哮をどこに棄てたのだろうか。あるいは、棄てる場所すら持たずに、スマートフォンの黒い画面の奥底へ、音のない悲鳴として堆積させてきたのだろうか。

【断絶のレンズ 遡源の緑光】
作品データ
タイトル:桐島、部活やめるってよ
公開:2012年8月11日
原作:朝井リョウ(小説『桐島、部活やめるってよ』)
監督:吉田大八
主要スタッフ:喜安浩平・吉田大八(脚本)、近藤龍人(撮影)、日下部元孝(編集)
制作:日テレアックスオン
本稿の焦点
主題:中心の不在が招くカーストの瓦解と、透明な管理社会で窒息する生の剥き出しの横顔。
視点:8mmカメラという不自由な義体による研磨と、共鳴する音による空間の宇宙的再編。
展望:砕け散ったレンズの破片が刻む位相差の傷跡を、物語を再起動する唯一の希望に据える。

序論:中心の空洞化と「身代わり」による実存の再起動

本稿は、全5回にわたる連載企画【祝祭の反転力と結晶の贈与:世界を再記述する「位相差」の連鎖】の第4回である。[前回の論考]では、茨城県下妻市という均質化された地方都市の同調圧力を母岩(Matrix)とし、ロココ的美学を貫く少女がいかにして独自の結晶(スタイル)を精製し、他者への贈与へと回路を開いたかを分析した1。本稿はその「個の美学」を、より集団的かつ動的なスクールカーストというシステムの中へと拡張し、中心の消失がもたらす再起動の可能性を論じる。

2026年の冬、私たちは「技術の再野生化」という極めて困難なフェーズに立っている。生成AIが情報の海を最適化し、人間関係におけるあらゆる「摩擦」を無効化しようとする現代において、14年前に公開された地方都市の高校を舞台にした本作が突きつける問いは、かつてないほどに生々しく、そして痛切だ。学校という空間は、教育や愛の供給よりも先に「格付け」という名の圧力が支配する冷徹な母岩(Matrix)である。そこでは、スポーツの巧拙や容姿の優劣、所有するアイテムの偏差値、あるいは「空気を読む」という処理速度の高さが、個体の価値を決定する絶対的なコードとして機能している。

私たちは、この高度に構造化された管理社会2の中で、常に自らの位置を確認し、中心との距離を測り続けてきた。かつて教室で交わされた視線のやり取りは、今やSNSのフォロワー数や「いいね」の数という数値化されたパラメータへと変貌し、可視化されたカーストとして私たちの精神を締め上げている。だが、本作において提示される「桐島の不在」は、その全システムの機能を停止させる例外状態3を創出する。

中心(サーバー)が応答を拒否したとき、私たちはどのような言葉で、あるいはどのようなデバイスで、自らの原質(Primal Matter)を証し立てることができるのか。ここで問われるのは、単なる青春の蹉跌ではない。システムが提供する「正解」が消失した荒野で、いかにして自前の足で歩行を開始するかという、生存知性の問題である。前田涼也(神木隆之介)が手にする8mmカメラという「時代遅れの砥石」が、割れたレンズの破片となって世界を切り裂く瞬間、私たちはそこに、システムの外部へと繋がる唯一の通路を見出すことになる。

1. システムの崩壊:サーバー「桐島」のダウンが暴く透明な監獄

本章では、学校という閉鎖系において「桐島」という存在がいかなる機能を果たしていたかを、情報工学的なシステム論の視点から解体する。中心の喪失が、それまで安定していたスクールカーストという名の母岩(Matrix)をいかに揺るがし、個体の実存を剥き出しにするのかを詳述していく。

1.1. 動的アルゴリズムの罠

学校という空間は、単なる学び舎ではなく、複雑な相互監視と評価が絡み合う動的な母岩(Matrix)である。そこでの序列は、江戸時代の身分制のような固定的なものではなく、常に更新され続けるアルゴリズム4に近い。生徒たちは、自らの立ち位置を「イケている/イケていない」「持てる/持たざる」という二元論的なコードに基づき、無意識のうちに計算し続けている。2026年の現在、このアルゴリズムはSNSを通じて校外へも拡張され、24時間体制で個体を格付けし続ける「透明な監獄」と化している。

このMatrix内において、バレー部のキャプテン候補であり、美人の彼女を持ち、成績も優秀な「桐島」は、システムの整合性を保証する中央サーバーの役割を果たしていた。彼という絶対的な座標軸が存在するからこそ、他の生徒たちは自分たちが「上から何番目であるか」を確信でき、秩序は保たれる。上位層(宏樹や梨紗たち)は彼との物理的・心理的距離の近さによって自らの優位性を保証され、下位層(映画部など)は彼という到達不可能な中心を仰ぎ見ることで、自らの無力を「仕方のないこと」として受容させられる。これは、パノプティコン5的な監視社会の変奏であり、目に見えない光線が教室中の自意識を焼き付けている状態である。

ここで一つの疑義が生じる。「強力な中心による統治は、争いを防ぎ、共同体の平和を維持するために必要なのではないか?」という機能主義的な反論である。確かに桐島システムは、教室内の摩擦を最小限に抑えていた。しかし、このシステムは決定的な欠陥を抱えている。それは、構成員が「原質(Primal Matter)」そのものを見るのではなく、システムのコードによって割り振られた「役割(タグ)」のみを消費しているという点だ。Matrixが提供する透明な檻の中で、彼らは自らを研磨することなく、ただ最適化されたポーズを演じているに過ぎない。平和の代償として差し出されているのは、彼ら自身の「生の実感」そのものである。

1.2. 空白がもたらす恐怖

「桐島が部活をやめるらしい」という一報は、この完璧なシステムのプラグを唐突に抜き去る。中央サーバーが応答を停止した瞬間、それまで供給されていたアイデンティティの承認は途絶し、母岩(Matrix)には致命的なエラーが発生する。これが「空白のテロル」である。

特に深刻なダメージを受けるのは、桐島に最も近かった(最も高速で回線接続していた)上位層の生徒たちだ。帰宅部のバレー部員たちや、桐島の恋人である梨沙は、自らの価値を定義していた「桐島への接続(ログイン)」ができなくなり、深刻な機能不全に陥る。彼らにとって、桐島がいない世界は、座標軸を失った無重力の宇宙のようなものだ。かつては全能感を享受していた彼らが、放課後の屋上や校庭で所在なげに彷徨う姿は、基盤となる母岩(Matrix)を失った寄生的な生命がいかに脆いかを残酷なまでに露呈させている。

ここで重要なのは、桐島がなぜ辞めるのかという「意味」は、物語の最後まで一切提示されない点である。中心は最初から空洞6であり、その不在がもたらすのは、理由のない「生の剥き出し」である。彼らが直面しているのは、それまでMatrixによって遮断されていた「世界の不透明性」そのものなのだ。彼らは「待つ」ことしかできない。しかし、待っている対象は永遠に来ない。この徒労感こそが、システムのバグが人間に与える最初の罰である。

1.3. ノイズとしての原質

中心が沈黙し、Matrixの重力がバグを起こしたとき、それまで「周辺」に追いやられていたノイズたちが動き出す。映画部の前田や、吹奏楽部の部長、あるいは野球部の補欠部員たち。彼らは、システムの計算外に置かれていたがゆえに、中心のサーバーダウンから最も影響を受けにくい位置にいた。彼らは元々、桐島サーバーに接続せずとも駆動する「スタンドアローン」の生存回路を(不器用ながらも)持っていたからだ。

この例外状態において、Matrixの「透明な監視」は一時的に機能不全に陥る。前田率いる映画部が、顧問の反対を押し切って自分たちの撮りたい「ゾンビ映画」の制作を強行するのは、まさにこのバグの隙間を突いた原質の噴出である。彼らはもはや、カーストの序列や「映画部=キモい=格下」という社会的コードを参照しない。彼らが参照するのは、自分たちの内側に脈動する「原質(Primal Matter)」と、それを形象化するための「研磨(Polishing-Phase)」の作法のみである。

「なぜ、わざわざゾンビなのか? もっと美しい青春映画を撮れば評価されるのではないか?」という市場原理的な問いは、ここでは無効である。彼らにとって重要なのは、評価されること(Matrix内でのスコアアップ)ではない。自分たちの身体的衝動を、いかにして純度の高いまま外界へ出力するかという一点にある。Matrixというプレス機が、桐島不在という事態によってその圧力を異常な方向に振り分ける中、前田たちはその圧力を逆に利用し始める。中心の消失は、悲劇ではなく、自律した歩行を開始するための祝祭的な「解放」として機能する。2026年のAI社会においても、既存の「成功モデル」という中心が崩壊する瞬間こそが、個別の原質が結晶化へと向かうための唯一の好機であることを、彼らの泥臭い歩行が示唆している。

2. デバイスの研磨:AI社会の最適化を拒む「不自由な武器」

本章では、映画部・前田による創作行為を、単なる表現活動ではなく、母岩(Matrix)の圧力を実存的な強度へと変換する「研磨(Polishing-Phase)」のプロセスとして解体する。特に、彼が手にする8mmカメラというデバイスが、いかに彼の身体衝動を肩代わりし、世界と衝突するための「身代わり」として機能しているかを詳述していく。

2.1. フィルムという砥石

2026年の私たちは、あらゆる情報が超伝導的に流通する「摩擦なき社会」に生きている。AIは私たちの思考を先回りして最適化し、スマートフォンのカメラはシャッターを切る前から「正解」の画像を生成し、美肌補正まで完了させている。このような摩擦のない環境では、個体の「原質(Primal Matter)」が露出する機会は極めて少ない。私たちは「失敗しない」代わりに、「手ごたえ」を失っている。

しかし、前田が固執する8mmフィルム7という媒体は、徹底して不自由であり、物理的な「摩擦」に満ちている。光を焼き付け、化学変化を待ち、物理的なリールを回して上映する。録音機能すらない場合もある。この一連の不連続で非効率な工程は、母岩(Matrix)が提供する「スマートな解決」に対する、意図的な遅延と抵抗である。

「デジタルで撮れば、編集も楽だし、すぐにSNSで拡散できるのに」という効率化の論理は、ここではむしろ毒となる。前田にとって、この不自由さこそが「研磨(Polishing-Phase)」の砥石となるからだ。デジタルカメラの無限の録画時間と即時性は、原質を希釈し、選択の重みを奪う。対して、数分間という物理的な限界を持つフィルムは、その一秒一秒に前田の全神経を集中させることを強いる。失敗すればフィルム(金銭的・物理的リソース)は無駄になる。この物理的な制約(圧力)の中でこそ、彼の漠然とした衝動は削り出され、固有の「位相差(Phase Difference)」を宿した結晶へと近づくのである。研磨とは、単に技術を磨くことではなく、対象と自分との間に発生する「摩擦エネルギー」を、実存の熱源へと転換する身体的作法に他ならない。

2.2. 義体としてのカメラ

前田という少年は、決して「持てる者」ではない。彼はスクールカーストの底辺において、自らの言葉で現実に介入することを禁じられた存在である。梨紗や宏樹といった上位層に対し、彼は生身の身体では太刀打ちできない。彼が直接彼らに文句を言えば、それは「痛い奴」として処理され、Matrixの藻屑と消えるだろう。そこで要請されるのが、カメラという名の「身代わり(義体)」である。

前田がカメラを構えるとき、レンズは彼の眼を拡張するだけでなく、彼の脆弱な皮膚を硬質な金属筐体へと置き換える。彼はカメラというデバイスを介することで、初めて世界に対して「指を指す(シュートする)」ことが可能になる。ここにおいてカメラは、単なる記録装置であることを超え、彼の内側に渦巻く「現実に触れたい、現実に復讐したい、現実を書き換えたい」という剥き出しの身体衝動を受け止める器となる。彼はファインダー越しに、憧れと憎悪が入り混じった視線で上位層を凝視する。それは覗き見ではなく、カメラという銃口を向けた決闘なのだ。

この「身代わり」のロジックは、極めて悲劇的かつ能動的である。彼は自分自身の身体でカーストの壁を叩く代わりに、カメラという物体にその衝突を肩代わりさせている。彼がファインダーを覗き込むとき、そこには「見ている自分」と「撮られている世界」との間に、カメラという緩衝材が介在している。だが、その緩衝材こそが、彼がMatrix内で唯一保持できる攻撃的な領土なのだ。彼が映画を撮るという行為は、自らの魂の一部をデバイスに転写し、それを社会という荒野へ射出する「サイボーグ的生存戦略」8の萌芽であるといえる。

2.3. 不透明な聖域の構築

現代の管理社会が最も忌避するのは「不透明性」である。データ化されず、予測不能で、解析を拒むノイズ。AI社会としてのMatrixは、あらゆる個体を「透明な檻」の中に閉じ込め、その欲望を可視化・数値化しようとする。本作におけるスクールカーストもまた、誰が何に価値を置き、誰に恋をしているかという情報を透明に共有することで、秩序を維持している。「隠し事」はシステムへの反逆とみなされる。

前田が制作する「ゾンビ映画」は、この透明な秩序に対する決定的な反抗(カウンター)である。ゾンビとは、生者でも死者でもなく、意味の外部に存在する不透明な肉塊9だ。キラキラした青春映画ではなく、薄汚れたゾンビ映画。さらに重要なのは、彼がそのイメージの深淵において、塚本晋也の『鉄男』10を召喚している点である。

『鉄男』における「男根のドリル化」が象徴する、機能主義を穿つ土着の情動。前田が教室の片隅で血糊を調合し、安っぽい特殊メイクを施すとき、その手元にあるのは『鉄男』的な「金属的ノイズ」であり、Matrixの評価基準では測定不能な「不気味な熱量」である。AIは「美しい画像」を生成できても、自らの肉体を損なうような「意味不明な汚濁」を、意志を持って生成することは(今のところ)できない。

この映画制作の現場は、学校という母岩(Matrix)の中にありながら、そのコードが届かない「アジール(避難所)」11を構築する。彼らが不器用に、しかし執鋭に「ゾンビ」や「鉄男」的な不浄のイメージを反復し続けるとき、そこには誰にも解析できない、前田だけの「不透明な原質」が保護されている。この「意味のなさ」こそが、管理社会に対する最強の防衛壁となる。彼らは映画を完成させること以上に、その制作プロセス(研磨)によって自らの不透明性を死守し、Matrixの監視回路から一時的に逸脱する祝祭を享受しているのである。「役に立たないこと」への没頭こそが、有用性を強いるシステムへの最大のハッキングなのだ。

3. 屋上の祝祭:レンズの破裂と音の振動が書き換える世界

本章では、物語の臨界点である屋上での乱闘シーンを、四元回路における「祝祭」と「破裂結晶」の同時多発的な発生として解体する。前田のカメラが「虚構の完成」を目指しながら、いかに「現実への介入」という身体的代償を支払い、それが他者の原質を再起動させる贈与へと変質したかを分析する。

3.1. 宇宙を調律する合奏

校舎の最上階である屋上は、地上(日常)の重力から最も遠ざけられた「空白地帯」である。そこは本来、桐島という太陽を失った上位層が絶望を反芻し、黄昏れるための墓標となるはずの場所であった。しかし、そこに前田率いる映画部という「ノイズ」が侵入することで、空間の性質は一変する。彼らが持ち込んだゾンビの死装束と血糊は、Matrixが規定する「清潔なヒエラルキー」に対する物理的な汚染である。

ここで行われる撮影は、ロジェ・カイヨワが論じた「祝祭(レ・フェット)」12の再来に他ならない。ゾンビという「言葉を持たぬ肉塊」のイメージが、カースト上位の美しい少年少女たちの絶望を侵食し、喰らい尽くしていく。前田が叫ぶ「回せ!」という号令は、規律による身体の従順化13を解除する呪文として機能する。

この祝祭を、校舎の深淵から響く「音」が加速させる。吹奏楽部の部長・沢島亜矢(大後寿々花)は、密かに想いを寄せていた菊池宏樹(東出昌大)の接吻を目撃するという致命的な「破裂」を経て、自らの拠点である部室へと帰還する。

彼女が射貫いたのは、本作が俳優デビュー作となった東出昌大が演じる「宏樹」という、あまりに巨大で虚ろな空洞である。モデルから俳優へと転身したばかりの東出が、その剥き出しの身体で演じた「何者でもない自分」への所在なさは、演技というシミュラークルを超え、中心を失った上位層のリアルな痛みとして画面に定着している。

彼女が仲間と共に解き放った合奏は、その東出に向けた失恋という個人的な痛みを物理的な振動へと変換し、Matrixの閉塞した空気を透過して屋上へと到達する。曲を吹き終えた瞬間の彼女の晴れ晴れとした顔は、記号の喪失を乗り越え、自らの音で世界を再記述した者だけが持つ実存的な美しさを湛えていた。

この瞬間、虚構はもはや現実の模倣ではない。レンズというフィルターを通した情熱と、サックスが刻む切実な旋律が、現実に流れる時間を物理的に攪乱し、Matrixのアルゴリズムを一時的に停止させる。「映画なんて撮って何になる」という冷笑的な現実は、「映画(虚構)が現実を飲み込む」という圧倒的な実演の前に敗北する。本来交わるはずのなかった「少女の失恋」と「映画部の咆哮」が、音というメディアを通じて一つの「宇宙(コスモス)」へと統合される。上位層も下位層も、ゾンビという不透明な肉塊として入り乱れるその瞬間、学校という高圧釜の中で煮詰められてきた摩擦エネルギーは、臨界点を超えて爆発的な「反転力」を獲得するのである。

3.2. 割れたレンズの贈与

前田は、乱闘の渦中でカメラを回し続ける。彼の手の中で唸りを上げる8mmカメラは、もはや風景を記録する装置ではなく、押し寄せる現実の暴力(上位層の苛立ちやシステムの圧力)を一点に引き受ける「避雷針」へと変貌している。ここにおいて、前田の「現実に介入したい」という原質は、カメラという身代わりを介して完全に外在化される。

乱闘の最中、レンズが物理的な衝撃を受け、あるいはフレームが激しく揺らぐとき、そこには「完成」を目指す映画(完成結晶)を超えた、一回性の激しい閃光が宿る。これが「破裂結晶」である。本来なら、カメラを守り、安全な場所から撮るべきだ。しかし、彼はカメラを盾にして突っ込んでいく。それは持続可能な作品としての美しさを放棄し、その瞬間の爆発的な自己救済へと全エネルギーを傾ける行為だ。

これに対し、「機材を壊すのは三流だ」という批判は正しい。だが、ここでは技術的な正しさよりも上位の、実存的な「正しさ」が優先される。前田にとって、この破裂は「自己贈与(Self-Gift)」の極致である。彼は、成功した映画監督になるという未来の報酬のために撮っているのではない。今、この瞬間のMatrixの圧力を、自らのデバイスを犠牲にすることで「生存の肯定」へと転換しているのだ。カメラという身代わりが世界と衝突し、火花を散らすとき、前田の凍てついていた原質は逆噴射的に熱を獲得し、彼自身を「底辺の受動性」から救い出す。この「割れたレンズ」という物理的な痕跡こそが、彼が世界に刻み込んだ最初の、そして最も鋭利な位相差となる。

3.3. 魂を穿つ位相差の傷

祝祭の終焉とともに、屋上には静寂が戻る。しかし、そこで生成された破裂結晶の余波は、一人の観測者――宏樹という上位層の少年に決定的な打撃を与える。宏樹は、野球部のキャプテンというMatrix内の完璧な役割を演じながら、その内側に「何者でもない空虚」を抱えていた。彼は、なんでも持っているがゆえに、何にもなれない。そんな彼が、前田という「不透明な存在」が放つ、無根拠で剥き出しの熱量に直面し、激しい内部摩擦を引き起こす。

前田が宏樹の「将来、映画監督とかになろうとしてるの?」という問いに対し、「映画監督になれるわけじゃない。でも、今、撮っている。それがたまらなく好きなんだ」といった趣旨を答えるとき、そこにはMatrixの効率性やバリュージャッジ(価値判断・将来性)を完全に無効化する「非対称な種火」が宿っている。この言葉と、それまでの前田の身体的な躍動(研磨)が、宏樹のOS(世界認識システム)に深い裂け目(クラック)を作る。

これは「他者贈与(External Gift)」の連鎖である。前田が生み出した結晶の位相差が、宏樹自身の眠っていた原質を強制起動させる点火装置として機能したのだ。宏樹が流した涙は、悲しみではなく、システムの保護下では決して味わえなかった「生の重圧」への震えであり、羨望である。原質は連帯することはない。だが、再起動の火花だけは、非対称に、そして残酷なまでに美しく連鎖する。前田のカメラという身代わりが砕け散った後に残されたのは、もはや桐島という中心を必要としない、個々の原質が放つ孤独な光の連なりであった。

結論:空洞を抱えて歩く「物語る主体」への回帰

本稿では、『桐島、部活やめるってよ』を「母岩(Matrix)の機能不全」と「身代わりによる再起動」の物語として解体した。桐島という中央サーバーのダウンは、生徒たちを透明な檻から連れ出し、剥き出しの原質(Primal Matter)同士が衝突する祝祭へと導いた。前田が手にした8mmカメラは、現実の圧力を肩代わりする身代わり(義体)として機能し、その「破裂結晶」は、自らを救うだけでなく、周囲の閉塞したOSに消えない傷跡を刻み込んだ。

2026年、私たちは「AIという名の全知全能の桐島」が常に稼働し続ける世界に生きている。システムの最適解から漏れることへの恐怖が、個体の原質を研磨する機会を奪い、実存を均質化し続けている。だが本作は教える。真の救済は、システムの中心を奪還することでも、AIに取って代わることでもない。中心が空洞であることを受け入れ、自らのデバイスや身体を「身代わり」として世界に突き立てる勇気の中にしかないのだと。不自由な道具を愛し、非効率な摩擦を慈しみ、割れることを恐れずにレンズを向けること。その傷だらけのプロセスだけが、私たちを「ただのデータ」から「物語る主体」へと書き換える。

この「自らを救い出す結晶の生成」という主題は、次なる局面において、さらに過酷な条件下での実践を要請されることになる。理不尽な喪失という巨大な重圧の中で、いかに「描き続ける背中」を維持し、過去(Back)を見つめる視線を未来への推進力へと変換しうるのか。次回、喪失を燃料に変える「エントロピー反転の倫理」を巡る論考へと接続する。

  1. 前回の論考「『下妻物語』:非効率の審美性と「自閉する原質」から他者への贈与回路」を参照。
  2. Gilles Deleuze, “Post-scriptum sur les sociétés de contrôle,” L’Autre journal, 1990. 日本語訳:ジル・ドゥルーズ「管理社会について」、ジル・ドゥルーズ『記号と事件:1972-1990年の対話』(宮林寛訳、河出文庫、2010年)。ドゥルーズは、密閉された規律社会から、数値やコードによって個体が絶え間なく変動・追跡される管理社会への移行を指摘した。
  3. Giorgio Agamben, Stato di eccezione, Bollati Boringhieri, 2003. 日本語訳:ジョルジョ・アガンベン『例外状態』(上村忠男・中村勝己訳、未来社、2007年)。法が停止され、生の剥き出しの力が露呈する緊急事態。本作においては桐島の不在がこの状態を誘発する。
  4. アルゴリズム(Algorithm), ある特定の問題を解くための計算手順。本作のスクールカーストは、他者の視線や言動という入力に対し、絶えず個体の「価値」を計算し出力し続ける社会的アルゴリズムとして機能している。
  5. Michel Foucault, Surveiller et punir: Naissance de la prison, Éditions Gallimard, 1975. 日本語訳:ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』(渡辺守章・田村俶訳、新潮社、1977年/新装版、2020年)。中央の監視塔から囚人が常時見られていると感じることで、自ら規律を内面化する監視システム。
  6. Roland Barthes, L’Empire des signes, Éditions du Seuil, 1970. 日本語訳:ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近訳、筑摩書房、1996年)。「空虚な中心」とは、社会学者のロラン・バルトが東京の皇居を指して用いた概念。中心に何もないからこそ、周辺がその空虚を埋めるように秩序立てられる。
  7. 8mmフィルム, 1930年代に普及した小型映画用のフィルム規格。デジタル撮影と異なり、物理的なフィルムの購入、現像というプロセスを要し、一度きりの露光という不可逆性を持つ。
  8. Donna Haraway, “A Cyborg Manifesto,” in Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, Routledge, 1991. 日本語訳:ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』(高橋さきの訳、青土社、2000年)。境界を攪乱し、テクノロジーを自らの身体の一部として再構築することで、既存の権力構造に対抗する主体。
  9. ゾンビ(Zombie), 元来は西インド諸島のブードゥー教の伝承に基づく。現代文化においては、理性や言葉を失い、食欲という原初的衝動のみで動く「意味を奪われた身体」の象徴として描かれる。
  10. 塚本晋也監督『鉄男』(1989年)。本ブログ内「『鉄男』:男根のドリル化と「機能主義システムを穿つ土着の情動」を参照。肉体と金属が融合し、日常が暴力的なノイズへと変貌するサイバーパンクの原典。
  11. アジール(Asylum), 権力が及ばない聖域や避難所。歴史学者の網野善彦らが論じた、中世社会における無縁・公界・楽市の空間概念。
  12. Roger Caillois, L’Homme et le sacré, Gallimard, 1939. 日本語訳:ロジェ・カイヨワ『人と聖なるもの』(古苅米晛訳、せりか書房、1975年/改訳版:『人間と聖なるもの』塚原史ほか訳、せりか書房、1994年)。カイヨワは、祝祭を日常的な秩序(俗)を一時停止させ、過剰なエネルギーを爆発させることで世界を更新する聖なるプロセスとして定義した。
  13. ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』(前掲書)。フーコーは、近代的な権力が規律訓練を通じて身体を従順な主体へと作り変えるプロセスを記述した。

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