時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『天空の城ラピュタ』:絶対知の暴力性と「文明的コスト」の総決算

映画システムと規範の構造1980年代アニメSFとポストヒューマン

私たちはなぜ、空に浮かぶ理想郷が崩壊する結末に、あれほど深く心を揺さぶられるのか。それは、技術が神になる時、倫理は放棄されるという、文明が持つ根源的な過ちを、この物語が示しているからだ。

実際、日本の週末興行収入ランキング、さらにはアメリカの週末興行収入ランキングでも、アニメ作品(新作・リマスター問わず)が上位を席巻している事実に象徴されるように、日本の知財はグローバルな資本と技術によって史上最大の流通量を獲得し、市場を支配している。しかし、その一方で、私たちの子どもの頃、テレビで繰り返し享受した『ラピュタ』のような作品は、今や厳格な権利構造の中に閉じ込められ、「文化的共有圏」を失いつつある。その作品が描いた「技術的優位性の暴力性」は、大人になった私たちが直面する「システムの構造的な裏切り」という空に浮かぶ力の代償の予言であったことに、私たちは今、気づかされている。本稿は、ノスタルジーを排し、この国民的な物語をシステム時代の倫理的コストという硬質な批評軸から再読する。

【叡智の核と、根源の帰結】
作品データ
タイトル:天空の城ラピュタ
公開:1986年8月2日
原作・脚本・監督:宮崎駿
主要スタッフ:高畑勲(製作)、丹内司(作画監督)、金田伊功(原画頭)、久石譲(音楽)
制作:スタジオジブリ

序論:知識の独占と「文化的機会の剥奪」の構造的アイロニー

知の探求が次なる時代において巨大な力(技術)へと転化するとき、いかに倫理的な放棄の危機に瀕するのか。本稿は、【システム時代の倫理的コスト:非情な合理性の中で「生」を再構築する】という大テーマに焦点を当てた全5回連載の批評企画の一部である。この連載は、80年代から20年代までのシステムと倫理の変遷を追うものである。

[前回の論考](『チ。』論)で探求された知は、いかにして巨大な技術力へと転化し、個人の実存的な機会を剥奪するに至ったのか1。本稿は、宮崎駿の映画『天空の城ラピュタ』(1986年)を起点に、システムの過酷な裏切りという倫理的放棄の構造を、現代の批評軸から読み解く。

本批評の眼目は、ムスカの個人的な悪意ではなく、「技術的優位性が不可避的に生み出す文明的コスト」を、氷河期世代の構造的不信と現代プラットフォーム論を交差させることで明らかにすることにある。

私たち氷河期世代が、かつてこれらの作品をテレビで繰り返し視聴し、「文化的共有圏」を形成していた時代は終焉した。現在の視聴環境は厳格な「権利と利権の構造」によって統制され、容易にアクセスできない。この「視聴機会の排他性」は、作品が主題とした「知識の独占」のテーマが、現実のメディア利権という形で、世代を超えた共有の機会を奪う構造的暴力を反復していることを示唆する。

1. 悲劇の起源:個人の暴走か、システムの必然か?

本作品の悲劇性を考察する際、その源泉をムスカという一個人の特異な権力欲に還元する解釈が一般的に広範な共感を集めてきた。血統主義と冷酷な知性を持つ彼の振る舞いは、暴走した「個人的な悪意」として消費され、パズーとシータによる「バルス」という抵抗が「正義の勝利」という単純なカタルシスを提供する。

しかし、本批評の座標軸は、このロマン主義的解釈から距離を取る。ラピュタの悲劇は、ムスカという特定のキャラクターに依存するものではなく、技術的優位性が絶対化されたシステムに内在する必然的な論理として把握されなければならない2

ムスカはシータに対し、「ラピュタは滅びぬ、何度でもよみがえるさ、ラピュタの力こそ人類の夢だからだ!!」と叫び、ラピュタを「正当な機会」として独占しようとする。彼の知性は、知識が権力と結びつき、アクセス権を排他的に制御する構造を最大限に効率化したに過ぎない。ムスカの言動は、システムが自らを維持・拡大するために選んだ、最も非情で合理的な「代理人」のロジックとして機能している。

2. 非情な合理性の具現化:道具的理性としてのロボット兵

ラピュタというシステムの「感情を持たない代理人」の最も純粋な具現化こそ、ロボット兵である。その行動は、情動を一切排し、道具的理性(Instrumental Reason)の二重性を鮮烈に示す3

ロボット兵は、シータを守るという単一の指令に対し、その指令を阻害する外部要因(軍隊)を容赦なく破壊し、人間を肉体的に痛めつける。この「優しさと破壊を同時に、無感情に行使する」姿は、科学技術という「力」が、倫理的な価値判断を持たない「中立的な両刃の剣」であることを鮮明に表象する。視聴者がこのギャップに直感するジレンマこそ、システムが内包する「非情な合理性」の倫理的コストである。

現代社会において、この道具的理性はAIやアルゴリズムによって先取されている。アルゴリズムは、倫理的判断を伴うことなく、絶対的な効率性に基づいて社会を統制する。例えば、金融取引における超高速トレードや、プラットフォームによるコンテンツのレコメンドは、その効率性を根拠に自らを正当化するが、結果として生じる個人の機会損失や精神的損害は、計算の対象外とされる。ロボット兵の静止と起動のギャップ、そして目的達成のための絶対効率性は、このシステムの危険な相貌を予言的に示していた。

3. 技術的優位性がもたらす「機会の剥奪」の構造

ムスカによるラピュタの技術的優位性の行使、すなわち「ラピュタの雷」による地上への威嚇は、単なる軍事的暴力ではない。それは、構造的なシステムが大多数の人間から未来の可能性(機会)を根こそぎ奪い去る構造的暴力の象徴である。

この「システムからの機会の剥奪」こそが、氷河期世代の批評的座標軸と強く共鳴する核心的なテーマである。私たちの世代が、努力や能力とは無関係に「正当な機会」そのものを奪われたという構造的不信は、この物語に深く共振する。現代のビッグ・テック(GAFA)によるプラットフォーム支配もまた、この構造的暴力を反復している。

具体的には、飛行石の独占がもたらす絶対技術は、現代におけるデータの独占とネットワーク効果に置換される。これは、新規参入者や競合他社にとって、市場への公正な参入機会や競争優位性の獲得という機会を奪う。また、ムスカが「ラピュタの雷」という暴力を駆使して地上を威嚇する行為は、プラットフォームがアルゴリズムによる自己優遇(Self-preferencing4という形で実行する、ルールの支配に等しい。この自己優遇は、ユーザーの公正な選択の機会や、コンテンツ制作者の露出機会を一方的に制限する。さらに、ラピュタが知識と血統によって支配を正当化した構造は、現代社会における知と資本が市場ルールそのものを支配する論理と相似形であり、個人の努力とは無関係な機会の配分、すなわち社会的格差の固定化をもたらす構造的な論理となっている。プラットフォームは、その効率性によって市場を固定化し、システムが最初から機会を閉ざしているという構造的な不信感と、論理的に地続きのテーマである。

結論:倫理的回復としての「バルス」と文明的コスト

ムスカがラピュタを「暴力的な権力の中枢」に変貌させた瞬間、知識の絶対化と排他的な支配欲は、ラピュタに内包されていた倫理的放棄のコストを一気に顕在化させた。

パズーとシータが発動した「滅びの呪文(バルス)」は、単なる破壊ではない。それは、システム(ムスカ)の論理(技術的支配)に対し、「知性(古代の暗号)」を用いてシステムそのものを破壊するという、知性に裏打ちされた究極の倫理的抵抗である。彼らは「技術を手放し、力を放棄すること」を通じて、倫理を回復させるという、人類にとって最も困難な選択を行った。

しかし、この「バルス」は、ラピュタが蓄積した知の遺産、文明の全てを放棄するという巨大な「文明的コスト」を支払う選択でもあった5。最終的に「根を張った生命と、叡智の核(飛行石)」だけが宇宙へと昇る結末は、倫理を伴わない知の探求が、いかに自己破壊的な結末を迎えるかという、文明が支払った倫理的コストの総決算を示している。視聴者がこの崩壊の美しさに深く共感するのは、技術と力に対する根源的な不信感の表出であり、「巨大な力に対する無力な個人の倫理的勝利」というカタルシスを求めているからである。

このラピュタが示した硬質な暴力と、そこからの倫理的回復というテーマは、次の時代において、個人の「内面(実存)」へとシステムが侵入するという新たな相貌を呈する。次回は、社会の無関心の中で、個人の存在証明が「市場」という新たなシステムの中で資源化され、追い詰められていく危機を考察する。

  1. 前回の論考『チ。』:命がけの探求と「冷たい合理性」への倫理的抵抗では、主人公たちが命がけで探求した「真理(知)」が、当時の絶対的な権力(教会)によって非情に抹殺される過程を分析した。本稿は、その「知」が抹殺されるのではなく、逆に絶対的な「技術力」へと転化し、社会を支配するという、次の段階の倫理的な問題へと批評軸を移行させる。
  2. 社会学における「システム理論」は、個人の意思決定ではなく、システムそれ自体の自己言及的かつ自律的な作動に、現代社会の支配構造の原因を求める。ムスカのロジックは、このシステムの自己目的的な機能を体現している
  3. 道具的理性(Instrumental Reason)とは、ドイツの思想集団フランクフルト学派(社会批判理論)が提唱した中心概念である。目的そのものが善であるか悪であるかを問わず、与えられた目的を達成するための手段の効率性のみを絶対視し、追求する理性の働きを指す。倫理や価値判断を排除した、冷徹な計算に基づく合理性である。特にマックス・ホルクハイマーとテオドール・W・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』(Horkheimer and Adorno, Dialectic of Enlightenment) において詳細に分析されている。ただし、彼らの理論は、大衆を無批判的かつ受動的であると見なすエリート主義的視座を持つとして、後にイギリスの文化研究(バーミンガム学派など)から、その批判の峻厳さを逆に批判されることになった。
  4. 欧州連合(EU)のデジタル市場法(DMA)で規制対象となる支配的事業者の行為の核心。
  5. この結末は、ドイツの思想家ウォルター・ベンヤミンが提示した技術と歴史に関する批評的視座と深く共鳴する。ベンヤミンは、技術の進歩を人類の「一方的な歴史の勝利」や無条件のユートピアへの道として肯定する進歩史観を徹底的に批判した。彼は、技術や文明の遺産には必ず支配者による「野蛮の文書」が刻印されており、その破壊的な可能性を直視することこそが真の歴史理解であると主張した。したがって、「バルス」による自壊は、倫理性を欠いた技術の集積が最終的に自己否定に至るという、ベンヤミンの示す技術の進歩に対する根源的な懐疑と警鐘を体現したものである。
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