時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『男たちの大和/YAMATO』:運命の破綻と「現代の棄民」の倫理

映画システムと規範の構造生存と生命の倫理2000年代ノベル

巨大なシステムの物理的な崩壊は、その内部構造に組み込まれていた個人の命の価値を瞬時にゼロへと引き戻す峻烈な現象である。映画『男たちの大和/YAMATO』は、一隻の不沈戦艦の轟音を伴う断末魔を通じて、近代国家という装置がいかにして人間を機能的な部品へと還元し、そして廃棄したかを記録した恐怖のドキュメントとして再読されるべきである。この作品の本質は、情緒的な涙やナショナリズムの肯定にあるのではなく、逃げ場のない鉄の密室で進行した「組織による個の消滅」というプロセスを現代に提示することにある。巨大な鉄塊の沈没という圧倒的な喪失のイメージを前にして初めて、人間は国家や企業といった集合的・構造的なシステムの呪縛から解き放たれ、生存そのものの倫理をゼロベースで問い直す地点に立つことができるのだ。

【断絶の伝声管と、沈黙の残渣】
作品データ
タイトル:男たちの大和/YAMATO
公開:2005年12月17日
原作:辺見じゅん(ノンフィクション小説『決定版 男たちの大和』)
監督・脚本:佐藤純彌
製作:角川春樹
主要スタッフ:阪本善尚(撮影)、松宮敏之(美術)、久石譲(音楽)
制作:東映京都撮影所
製作:東映、角川春樹事務所、テレビ朝日 ほか

序論

本稿は、一連の批評企画【時クロニクル:歴史の清算と「喪失からの再生」の倫理学】(1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追う全5回連載)の第3回にあたる論考である。[前回の論考]において本稿の視座は、個人的な喪失がいかにして他者の記憶を通じて回復されるかを確認した1。今回はその視座を拡張し、2005年に制作され、佐藤純彌が指揮を執った本作を対象に、国家という集合的な運命が個人に強いる倫理的課題を解剖する。

辺見じゅん著『決定版 男たちの大和』を原作に、終戦60周年を記念して制作された本作は、東映の配給・角川春樹の製作のもと公開された。公開当時、興行的な成功を収め、2005年の邦画興行収入第1位となった一方で、戦争の悲劇を美化しているとの批判や、愛国主義的な回顧であるとのイデオロギー的な反発に晒されてきた。日本映画研究者アーロン・ジェローが指摘するように、本作は単なる娯楽作に留まらず、戦後日本におけるナショナリズムと平和主義の相克を反映する「論争を曖昧化し、循環的に再演する場」として機能した。この両義的な構造こそが、観客に戦争の悲惨さと「美意識的な散華」を通じた犠牲の美化という矛盾を「代理的トラウマ体験」として消費させ、戦後の分断や歴史的責任問題を曖昧化し、議論の結論を回避する役割を果たしたとジェローは論じた2。本論は、そうしたイデオロギー的な評価の複雑性を踏まえつつも、作品が内包する個人の尊厳と生存の倫理に焦点を当てる。

しかし、2025年の現在地から振り返るとき、本作が内包していた真の主題は、そうした政治的な二項対立の彼方にあることが明らかになる。それは、生存確率が極限まで切り詰められた状況下で、人間はいかにして自己の尊厳を保つかという実存的な問いであり、同時に、破綻が約束されたシステムに殉じることを強いる「構造的な暴力」の告発である。本論は、戦艦大和という巨大な表象を「道具的理性の最果て」として捉え直し、その沈没を経て語られる生存者の証言を、現代社会における倫理的再生の起点として位置づける試みである。

1. 集合的な運命の呪縛:個を矮小化する構造的暴力

戦艦大和の沖縄特攻(天一号作戦)は、軍事合理性を逸脱した国家的大義、すなわち集合的な運命の論理的帰結であった。ここでは、システム自体が目的化し、それを構成する人間が単なる手段へと転落するプロセスを分析する。この構造的暴力を理解するために、本論では「技術的な非合理性」と「政治的な例外状態」という二つの側面から、大和という空間を支配していた論理を検証する。

1.1. 道具的理性の暴走と生存の否定

大和の出撃において最も戦慄すべき事実は、それが戦略的な勝利を目指した作戦ではなく、一億総特攻の先駆けとして「散ること」自体を目的化した儀式であった点にある。社会学者マックス・ウェーバーが提唱した「道具的理性」は、目的を効率的に達成するための理性を指すが、ここでは「国体護持」という抽象的な価値目的のために、兵士の生命という具体的手段の価値が極限まで切り詰められている。

当時の記録や証言に基づけば、沖縄までの片道燃料しか積載されなかったという説や、米軍の航空戦力に対する対空兵装の圧倒的な劣勢は、作戦立案段階で兵士の生還が前提とされていなかったことを示唆する客観的なデータである。約3000名の乗組員のうち生還者が約270名、生存率にして10パーセント未満という数値は、悲劇という言葉では回収しきれないシステムのエラー、あるいは意図的な廃棄証明である3。この船は、兵士を守るための要塞ではなく、兵士を国家という巨大な物語に奉仕させるための祭壇として機能していた4。ここでは個人の生存本能や合理的な判断は、システム維持の論理によって圧殺されている5

1.2. 例外状態における思考の停止

この極限状況を可能にしたのは、政治学者カール・シュミットが定義した「例外状態」の常態化である。主権者が法や倫理を停止し、生殺与奪の権限を掌握するこの状態において、個人の倫理的選択肢は消滅する。劇中で描かれる兵士たちの葛藤、生への執着、あるいは上官による鉄拳制裁は、通常の社会規範が適用されない閉鎖空間における支配構造を露わにしている。

「大和と運命を共にする」というスローガンは、個人の思考を停止させる強力な呪縛として機能した。そこでは、「なぜ死ななければならないのか」という根源的な問いを発すること自体が、共同体への裏切りと見なされる。指導層による独善的な決定が、現場の兵士に「死の受容」を強制するこの構造は、ナチズムや全体主義国家に見られるメカニズムと同質である。重要なのは、これが過去の特殊な事例ではなく、危機管理の名の下に個人の権利が制限される現代のあらゆる組織や社会状況にも通底する普遍的な危険性を孕んでいるという点である6

2. 喪失と個人の証言:内在的倫理と事後の清算

システムが物理的に崩壊し、圧倒的な喪失が訪れた後、残された者には何ができるのか。ここでは、兵士たちが抱いていた「内在的な倫理」と、生き残った者が行う「証言」の意義について考察する。彼らは単に洗脳された被害者ではなく、逃げ場のない状況下で独自の意味を見出そうとした主体であり、その記憶を継承することは現代的な責任の一部である。

2.1. 滅びの美学という救済と搾取

兵士たちが死を受け入れた背景には、単なる強制を超えた心理的な防衛機制、すなわち「滅びの美学」への自発的な同調が存在したことを無視してはならない。逃れられない死の恐怖に直面した時、人はその死に崇高な意味を与えなければ精神の崩壊を防ぐことができない。劇中で描かれる「散華」の思想や、愛する者を守るために散るという物語は、彼らにとって残酷な現実を耐え抜くための唯一の倫理的支柱であった。

しかし、この「内在的な倫理」こそが、システムによって最も巧妙に搾取された資源である。国家は、兵士個人の純粋な献身や美意識を、無謀な作戦を正当化するためのエネルギーとして転用した。批評的視点は、彼らが信じた美学を否定することなく、同時にその美学を利用して死へと追いやった構造の欺瞞を批判的に解体する必要がある。彼らの死を「美しい悲劇」として消費することは、システムによる搾取の共犯者になることを意味するからである。

2.2. 歴史修正主義に抗う顔の記憶

生存者である神尾と、彼の上官であった内田の養女・真貴子による鎮魂の旅は、この搾取の連鎖を断ち切るための「倫理的な清算作業」である。現代において台頭する歴史修正主義や、過去を都合よく書き換える言説に対し、生存者の証言は最も強固な抵抗として機能する。それは抽象的な「英霊」としての死ではなく、痛みや恐怖、未練を持った「具体的な他者」としての死を復権させる行為だからである。

特に、神尾を演じた故仲代達也は、『日本のいちばん長い日』など戦後民主主義的な視点を持つ作品に出演してきた経緯があり、彼が「証言者」を演じること自体が、イデオロギー的な清算というメッセージを強化している7。哲学者エマニュエル・レヴィナスが論じたように、「他者の顔」は主体に対して無限の責任を呼びかける8。生存者が語る、仲間たちの断末魔や最期の言葉は、歴史の教科書や勇ましい戦記物が捨象してきた「個のリアリティ」を突きつける。この証言を通じて、死者は国家の道具から、固有の名前を持つ人間へと還る。社会学者のモーリス・アルブヴァクスが指摘するように、記憶は社会的な枠組みの中で再構築されるものであり、次世代である真貴子がその物語を受け継ぐことによって初めて、大和の悲劇は公共的な教訓として定着するのである9

3. 再生と新しい倫理:ホモ・サケルからの離脱

歴史の清算を経た後、現代の主体はどこへ向かうべきか。最終章では、1945年の兵士たちと、2025年を生きる現代人、特に経済的な停滞の中で「見捨てられた」感覚を持つ世代との接続を試みる。大和の物語は、過去の遺物ではなく、システムに見捨てられた者がいかにして生存を肯定するかという、極めて現代的な課題を提示している。

3.1. 現代の棄民と剥き出しの生

大和の兵士たちが置かれた状況は、現代社会における「就職氷河期世代」や「ロスジェネ世代」が直面した経済的な疎外と構造的に共鳴する。哲学者ジョルジョ・アガンベンは、法的な保護の対象外に置かれ、犠牲にされても罪に問われない存在を「ホモ・サケル(聖なる人間/呪われた人間)」と定義した10。国家の大義のために使い捨てられた兵士と、労働市場の規制緩和や経済政策の失敗によって社会的な安定を剥奪され、自己責任論の下で放置された現代の棄民たちは、共にシステムによって「剥き出しの生」へと還元された存在である。

この接続は、論者に戦慄をもたらすと同時に、ある種の連帯の可能性を示唆する。現代人が映画の中の兵士たちに感情移入するのは、それが遠い過去の出来事だからではなく、我々現代人もまた、巨大なシステムの都合によっていつ切り捨てられるか分からないという、無意識の不安を共有しているからではないか。

3.2. 日常への帰還と生存の肯定

だからこそ、映画の結末が示唆する「日常への回帰」は、単なる逃避ではなく、積極的な倫理的闘争として再評価されなければならない。生存者である神尾が、長い苦悩の果てに漁師としての生を全うし、内田の養女である真貴子が未来へと歩き出す姿は、システムが強いる「死の美学」に対する「生のしぶとさ」の勝利である。

歴史の重圧を引き受け、証言という責務を果たした後、個人は再び「日常」というささやかな、しかし確実な手触りのある世界へと戻らなければならない。それは、国家や歴史といった大きな物語に依存せず、ゼロベースで自らの生存を定義し直す試みである。現代社会が目指すべき再生とは、かつてのような右肩上がりの成長や輝かしい未来の回復ではない。システムが機能不全に陥った世界であっても、なお呼吸し、食事をし、他者と関わり続けるという、泥臭く強靭な「生存の肯定」に他ならない。

結論

映画『男たちの大和/YAMATO』は、近代国家という巨大システムが必然的に孕む暴力性を、戦艦の沈没という黙示録的な映像によって露わにした。それは、個人の命が目的合理性の名の下に搾取され、廃棄されるメカニズムの厳然たる記録である。しかし、廃墟の中から立ち上がる生存者の証言は、歴史修正主義による忘却に抗い、死者の尊厳を回復させるための倫理的な楔となる。

読者がこの作品から受け取るべきは、散華の美しさへの陶酔ではなく、システムに見捨てられたとしても生き延びるという、静かだが強烈な意志である。歴史の清算を終えた現代の主体は、重厚な鉄の記憶を後にして、次なる生のステージへと向かう。そこは、論理や歴史の必然性が支配する世界から離れ、予測不能な偶然と熱狂が支配する、京都の夜のような場所かもしれない。

  1. 前回記事「『Love Letter』:喪失の倫理学と「倫理的生存者」の責務」では、予期せぬ死による個人の喪失が、「手紙」という媒体を通じた他者の記憶の共有によって、残された者のアイデンティティ再構築へと繋がるプロセスを分析した。本稿では、その射程を「個人の記憶」から「国家・歴史という巨大な集合的記憶」へと拡張し、不可避な運命に対する倫理的態度の変遷を追う。
  2. Aaron Gerow, “War and Nationalism in Yamato: Trauma and Forgetting the Postwar,” [「男たちの大和」における戦争と国家主義−−トラウマと戦後忘却], The Asia-Pacific Journal: Japan Focus, Volume 9, Issue 24, No. 1, June 13, 2011. ジェローは、本作が戦後保守主義の文脈で消費されつつも、同時に戦争の悲惨さを強調することで、イデオロギー的に両義的な空間を生み出したと論じた。
  3. 戦艦大和の天一号作戦における乗員数は約3,332名(諸説あり)に対し、戦死者は約3,055名、生存者は約277名(数字は資料により若干の差異あり)。本論では、防衛研修所戦史室の資料及び、歴史研究家による多数の著作で引用される「約3,000名中、生還者約270名」という概数を採用する。これは生存率が1割未満という事実を端的に示す指標である。
  4. 戦艦大和は基準排水量65,000トン、主砲45口径46cmという世界最大最強のスペックを誇った。その巨大な要塞が、燃料不足と航空支援の欠如という戦術的な非合理性によって、単なる標的として捨てられた事実は、道具的理性の暴走を示す象徴である。この船の技術的スペックの事実確認については、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の「数字で見る戦艦「大和」」を参照。
  5. マックス・ウェーバーの社会学における「目的合理性」と「価値合理性」の対立参照。システムが自己目的化するとき、人間性は合理性の名の下に排除される。
  6. カール・シュミットの政治的神学における「例外状態」論参照。危機において主権権力が法を超越するメカニズム。
  7. 故仲代達也の出演は、戦後日本映画の歴史的文脈において、映画のメッセージに強い象徴性を付与している。彼の存在は、観客を単なる過去の回顧ではなく、歴史の再評価へと引き込む役割を果たしている。
  8. エマニュエル・レヴィナスの倫理学における「顔」の概念参照。無防備な他者の現れが、主体に対して殺してはならないという倫理的命令を発する。
  9. モーリス・アルブヴァクスの『集合的記憶』参照。個人の記憶が集団の枠組みを通じて保持・変容されるメカニズム。
  10. ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』参照。主権権力によって政治的生命を剥奪され、単なる生物的生命(ゾーエー)に還元された存在。
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