巨大な人造人間が咆哮し、世界の理が崩壊するスペクタクルを背景に、四半世紀にわたり反復された物語は、自己完結的な閉鎖系からの脱出という至上の課題を突きつけ続けた。本稿では、情報社会におけるアルゴリズムの自動化(Automation)と個人の実存的選択の相克という現代的課題を軸に、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が提示した倫理的超克の回路を解読する。構造論理の果てに現れる非合理な情動こそが、冷厳な合理性によって最適化された社会を再定義する鍵となる。抽象度の高いシステム論を、身体的リアリティという具体的な手触りへと翻訳するプロセスを通じて、本連載の最終的な課題である構造に回収されない人間の倫理性を確立する。
序論
2021年に総監督・庵野秀明によって完結をみた『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、戦後日本のアニメ史における最大級の特異点である。本稿は、全5回にわたる連載企画【システムの「限界」からの倫理的超克:冷たい合理性の時代における「非合理な情動の機能」】の最終回であり、3か月におよぶ思考の旅の結節点となる。
本作を含む新劇場版シリーズは、TVシリーズを踏襲した『序』、新たな機体やキャラを加え物語が分岐し始めた『破』、そして前作から14年後の世界を舞台に全く新しい物語へと飛躍した『Q』という変遷を経て、完結編へと至った。[前回の論考]で扱った、法のシステムを相対化する個の意志という主題は、本作において世界そのものの再構築という形へと昇華される1。特に1990年代後半の就職氷河期を経験し、現在は社会の中核を担いながらも、構造的な閉塞感に直面する世代にとって、本作が描く「エヴァの呪い」からの解放は、単なるフィクションの終焉を超えた実存的な意味を持つ。
1. システムの暴力性と決定論の構造
本作におけるエヴァンゲリオンというシステムが、いかに個人の主体性を剥奪し、決定論的な円環へと閉じ込める機能を果たしているかを、以下の三つの側面から分析する。
1.1. 円環する運命の自動化
劇中の人類補完計画は、個体の境界を抹消し、全人類を単一の意識へと還元する究極の合理化を目指す。これは、現在進行形の生成AIによる情報の均質化や、アルゴリズムが個人の嗜好を先回りして閉鎖的なエコーチェンバーを形成する暴力性と同型である。ゼーレや碇ゲンドウが追求するこの計画は、予測不可能な他者というノイズを排除し、静止した永遠を実現しようとする。それは、ベルナール・スティグレールが提唱した、技術的自動化が人間の精神的決定能力を奪うプロセスに他ならない2。
1.2. 身体的成長の停止と社会的疎外
「エヴァの呪い」による身体的成長の停止は、長期的な経済停滞により、自律的な生活基盤を構築できずに成熟を遅延させられた氷河期世代の社会状況と強く共鳴する3。この呪縛は、主体を特定の役割に固定し、システムを維持するための消耗品として扱う。構造が個人の時間を搾取し、生活の主体としての再生を拒む様子が、ここでは身体の不変性として象徴的に描かれている。
1.3. 監視資本主義としての補完計画
ゼーレの目指す補完計画は、現代思想における監視資本主義の極致として再解釈可能である4。ゲンドウが求める亡き妻との再会という私的な欲望は、全人類の行動予測を完全に固定し、不確実性を排除することで達成される。システムの冷たい合理性は、過去のデータに基づいた最適解(補完)を提示するが、そこには未来への偶発性や、非合理な主体の意志が介入する余地が残されていない。
2. 倫理的主体と身体性による抵抗
システムの外部、あるいは周縁において、いかにして人間的な倫理性が回復され、構造への抵抗が試みられるのかを、具体的な描写に基づき論じる。
2.1. 社会的処方としての第3村
ニア・サードインパクト後の「第3村」は、高度な技術体系の外側に位置する、土の匂いがする前近代的な共同体である。かつて提示した論考5において指摘した「官僚制的組織による個の搾取」という構図は、この地においてようやく解体される。碇シンジの回復プロセスは、現代の福祉学における「社会的処方」の極めて理にかなった実践である。そこでは、かつての学友たちが「大人」として彼を等身大の他者として迎え入れ、生活の規律を共有する6。
2.2. 責任のコストと中間的就労
シンジが直面した失語と退行は、自らの行動がもたらした壊滅的な結果に対する、倫理的な責任の過負荷を示している。個人の処理能力を超えた倫理的コストに直面した際、主体は一時的に機能不全に陥る。しかし、第3村の人々が彼を排除せず、食事を与え、ただそこに居ることを許容する態度は、合理的な社会的責任を超えた受容である。これは「中間的就労」のような、就労以前の社会的接続の場として機能しており、主体を再構築する緩衝地帯となっている。
2.3. ソマティック・エクスペリエンシングによる再生
アヤナミレイ(仮称)が村での生活を通じて名前や挨拶を学び、自己を個体化していく過程は、プログラムされた役割を内部から崩壊させる。土の感触や食事の温かさといった具体的な身体的介入は、ソマティック・エクスペリエンシング(身体心理学)的知見と整合し、NERVという無機質な空間で凍結された精神を解かし、自律的な意志を回復させる7。
3. 非合理な回路によるシステムの再生
物語の終盤、虚構の重層性を突破し、いかにしてシステムが倫理的に再定義されるのか、その超克の回路を明らかにする。
3.1. 対話による決定論の突破
シンジはエヴァという物理的暴力ではなく、マイナス宇宙という精神的領域での対話によってゲンドウと対峙する。これは、敵対者を排除するという合理的闘争論理の放棄である。ゲンドウが抱えていた孤独や喪失感という極めて主観的で非合理な情動を、シンジが他者として認めた瞬間、補完計画というシステムの根拠は消失する。ここでは、ジークムント・フロイトが説いた「喪の仕事」が、親子という微視的な関係を通じて、世界規模のシステム解体へと繋がっている8。
3.2. マリという偶発性の導入
真希波・マリ・イラストリアスは、既存の「物語」という閉鎖系に外部から介入する偶発性(Contingency)の象徴である。彼女は血縁や過去の因縁に縛られず、シンジを迎えに来ることで、閉鎖的なアルゴリズムを脱自動化させる。これは、情報の予測精度が極限まで高まった現代において、計算不可能な外部との接触がいかに救済となり得るかを示唆している。彼女の存在は、構造に閉じ込められた主体が別の可能性へと跳躍するための非合理なトリガーとして機能する。
3.3. 「かのように」の哲学と、意味の場の選択
「ネオンジェネシス(新しい創世記)」は、エヴァのない世界への書き換えを意味する。これは過去の消去ではなく、すべての苦難と虚構を事実として引き受けた上で、現実へと帰還する「かのように」の哲学の実践である9。但し、この救済は物語という装置を自ら解体し、没入を拒絶するという冷徹なメタ・レベルの切断の上に成立している点に注意を要する。ディープフェイクやAI生成物が溢れる今日、何が「事実」かという客観性に固執するのではなく、虚構が事実ではないことを弁えた上で、どの意味の場を選択して現実を生きるかという能動的な倫理を確立するプロセスである10。
結論
本連載では、80年代の肉体変容を描いた『鉄男』に始まり、90年代の『Shall we ダンス?』、00年代の『イノセンス』、それから10年代の『劇場版 PSYCHO-PASS』へと至る作品群を貫く「システムの限界と倫理的超克」という主題を追ってきた。冷淡な合理性が支配する社会構造に対し、人間がいかにして自らの身体性と情動を武器に、その外部へと逃走し、あるいは内部からシステムを再生させ得るかを問い続けたのである。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が示した「現実への帰還」は、本企画が導き出した最終的な結論である。それは、構造を完全に破壊することではなく、虚構という装置を通過することで、現実をより豊かに、より倫理的に再定義する回路の確立に他ならない。予測可能なアルゴリズムの円環を突き破るのは、常に私たちの内なる計算不可能な情動である。プロローグから始まったこの3か月にわたる思考の旅は、構造の檻の中に、常に外部への扉が存在することを証明した。
「人類の進歩」が、いつしか「個の尊厳」を脅かす機構へと変質していく以前の、剥き出しの希望がそこにはあった。2026年、新たな幕開けとともに、広大な宇宙を舞台に、文化という名の非合理な力が星々を揺るがし、愛という旋律が巨大な戦火を調停する、あのみずみずしい神話の原点へと遡る。
- 前回記事「『劇場版 PSYCHO-PASS』:データ植民地主義と「身体性の倫理的超克」」では、シビュラシステムという全知の法の外部に立つ個人の強い倫理を分析し、法がシステム化した社会における責任の所在を問うた。本稿はその議論を継承し、システムそのものを内側から書き換える「物語の倫理」へと視点を深化させる。↩
- ベルナール・スティグレール『技術と時間』を参照。技術的自動化が人間の精神的・倫理的な決定能力を奪うプロセスを論じている。↩
- 内閣府「就職氷河期世代支援プログラム」および厚生労働省『労働力調査』を参照。1990年代末から2000年代初頭にかけての若年層における非正規雇用の急増と、その後のキャリア形成への長期的影響。今日、この世代は孤独死や老後不安といった新たな構造的負荷に晒されている。↩
- ショシャナ・ズボフ『監視資本主義:人類の未来を賭けた闘い』を参照。行動データの抽出と予測が利益を生む新たな経済秩序。↩
- 先行記事「『エヴァンゲリオン』:機能不全と「内面化された倫理」の二重負荷」では、旧NERVの日本型官僚制的な病理と、形式化した組織が個人に強いる「自己責任論」的負荷を分析した。本作の第3村は、そうした構造的機能不全から脱却し、身体的・共同体的な生の肯定によって主体を再構築する場として機能している。↩
- 西智弘ほか『社会的処方:孤立という病を地域のつながりで治す方法』を参照。↩
- ピーター・ラヴィーン『トラウマと記憶』を参照。身体感覚を通じてトラウマを解放するプロセス。シンジが農作業を通じて身体性を取り戻す描写と重なる。↩
- ジークムント・フロイト『喪とメランコリー』を参照。↩
- ハンス・ファイヒンガー『「かのように」の哲学』を参照。虚構が現実を構築する上で不可欠な手段であるとする認識論。↩
- マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』を参照。 唯一の「世界」を否定し、実在を無数の「意味の場(fields of sense)」の交錯として捉える新実在論の視座。存在するものが全て真実(事実)ではないことを弁えた上で、自らの生が属すべき文脈を能動的に選択する態度は、ポスト真実時代の知的な実存モデルを提示している。↩

