現代日本社会における災厄は、もはや単なる自然現象として定義できない。それは、社会が過去の巨大な歴史的・集合的な喪失を適切に悼み、清算しきれなかったことによる、抑圧された負のエネルギーの噴出であり、日常の忘却によって構造化された運命的なシステムそのものである。『すずめの戸締まり』が描いた、廃墟に潜む後ろ戸という境界は、個人の責任による歴史の清算を要求する、現代における最も倫理的な挑戦状の一つとして提示される。本稿は、この作品が描く集合的無意識の深層と個人の贖罪の倫理の構造を、批評の厳密性をもって分析し、次なる時代の隠された構造へと接続する、決定的な論考である。
序論
新海誠が2022年に公開したアニメ映画『すずめの戸締まり』は、東日本大震災後の日本社会が、歴史的・集合的な喪失をどのように無意識の層に沈殿させ、その結果として個人の倫理的選択にどのような負荷をかけているかを分析するための、現代において倫理的検証を深める上で不可欠な論考の基盤である。本作は、公開時、ポストコロナ禍における社会的な閉塞感からの脱却への希求、そして震災の記憶の風化への警鐘という観点から圧倒的な共感を得た。特に、物語の中核を成す廃墟の描写は、失われたコミュニティと、その無念の記憶が物理的な場所に残り続けるという、日本社会の根源的な課題を可視化した点で高く評価される。
新海の過去作品と比較すると、『君の名は。』が記憶の断裂と「非合理な再接続」を、『天気の子』が共同体の生存が要求する「合理的犠牲」の倫理的臨界を描いたのに対し1、『すずめの戸締まり』は、災害の責任を個人が引き受け、清算する「倫理的な贖罪」へとテーマを昇華させている。この変遷は、新海の主題が「世界の選択」から「歴史の清算」へと移行したことを明確に示す。
本稿は、1980年代の『復活の日』に始まり、90年代の『Love Letter』、00年代の『男たちの大和/YAMATO』、そして10年代の『夜は短し歩けよ乙女』と続いてきた連載【歴史の清算と「喪失からの再生」の倫理学】2の最終回である。これまでの論考では、ウイルスによる生存競争、個人の記憶による自己再構築、国家というシステムへの義憤、そして日常という祝祭空間への逃避と回帰を通じて、システムと個人の倫理的相克を追ってきた。本稿は、この大テーマの結論として、『すずめの戸締まり』を以下の三層構造から解剖する。これにより、[前回の論考]が扱った日常という表面的な呪縛の奥にある、集合的無意識という深層の呪縛を断ち切る試みとして、連載全体の論理的な結論を導出する3。
1. 集合的な運命(呪縛):災害と忘却のシステム倫理の解剖
本章では、災厄が、いかに個人の意志を超えた集合的な運命として、現代社会の倫理的基盤を構造化しているかを分析する。作品内の具体的描写を軸に、集合的無意識の顕現と、それが引き起こす時間の倫理的停止のメカニズムを解き明かす。
1.1. 集合的無意識と負のエネルギーの構造的顕現
作品において災厄は、単なる突発的な自然現象として描かれない。それは、かつて人々が暮らし、今は廃墟となり、人々の営みが去った場所に潜む。すなわち、記憶と賑わいの残響が消失した空隙に、常世(とこよ)という集合的無意識の深層世界に繋がる後ろ戸を通して、現世に顕現する。この構造は、災害を集合的無意識が構造化した運命的なシステムとして捉えることを可能にする。
分析哲学者のカール・グスタフ・ユングが提唱した集合的無意識(Collective Unconscious)の視点から見れば、ミミズの出現は、社会が過去の巨大な喪失(震災など)を適切に悼み、清算しきれなかったことによる、抑圧された負のエネルギーの噴出である。この廃墟という「間(ま)」の発生は、清算されていない集合的喪失(亡霊)が、ジャック・デリダの憑在論(Hantologie)的構造として、伝統的な「幽明境」を通じて物理的に現世に干渉する形式として解釈される。ミミズは、地震という最終的な物理現象そのものではなく、忘却という倫理的条件の下で出現する社会的な病理の徴候として機能する。この負のエネルギーは、人々が場所を去り、その記憶を風化させることによって、場所の力を負に転じさせ、常世との境界を曖昧にする。実際に、震災から10年以上が経過し、震災遺構の保存議論が難航する中で、被災地の記憶が物理的にも精神的にも急速に風化しているというデータは、このミミズの温床が現代社会全体に広がっている事実を裏付けている4。
1.2. 常世(とこよ)の時空間構造と倫理的な時間軸の停止
この常世の概念は、単なる異世界ではなく、集合的喪失の時間論を体現する、時間の倫理的停止としての側面を持つ。岩戸鈴芽が後ろ戸をくぐり、常世で過去の自分自身に会うことができた時空間の構造は、アンリ・ベルクソンの持続(Durée)の視点から解釈される。過去の痛みが清算されずに現在に残り続けることによる、倫理的な時間軸の停止を意味する。常世で聴こえる人々の声の残響は、デリダの憑在論(Hantologie)が示すように、死者の声が時空間の外部から現世に干渉するという構造であり、忘却が単なる記憶の欠落ではなく、倫理的な時間軸の停止であるという論を深める5。
1.3. 忘却という無意識のシステム倫理
前回の論考が扱った日常という呪縛への逃避は、表面的な安寧をもたらす一方で、災害の記憶の風化の倫理を生み出す。社会が巨大な喪失の痛みを直視せず、日常というシステムに埋没し続ける限り、負のエネルギーは沈殿し、次の災害の準備システムとして機能する。失われた30年や経済合理性の呪縛を経験し、構造的な不遇を個人の努力不足へと転嫁され続けてきた氷河期世代の視点から見れば、この忘却の倫理は、社会の集合的な無責任が、経済的・感情的な清算を回避するために採用した、無意識の戦略と共鳴する。この忘却という無意識のシステム倫理こそが、社会を支配する集合的な運命であり、次の災厄の呼び水である6。
2. 喪失と個人の証言:扉を閉める贖罪の倫理の解剖
本章では、鈴芽の閉じ師としての行為が、いかに集合的な責任を個人の贖罪として引き受ける倫理的な証言であるかを、作品内の要石や旅の構造分析を通じて論じる。また、そこに潜む自己責任論の危うさと、それを乗り越える論理を検証する。
2.1. 個人の代償的責任としての清算と要石の倫理的役割
閉じ師としての鈴芽の行為は、単なる物理的な封印作業ではない。それは、集合的な責任としての災害の再発防止を、個人の倫理的行為として一身に引き受け、歴史の清算を試みる贖罪の倫理として機能している。鈴芽は、自らも被災者でありながら、要石という集合的な犠牲の封印の象徴を引き受け、過去の災害の個人の代償的責任を負う。
ここで批判的に検討すべきは、宗像草太を救うという個人的な動機、すなわち草太への「愛」と、自らが要石を抜いた結果として彼を椅子に変えてしまったことへの「責任」や「罪悪感」が複合した個人的な救済願望が、システムの根本的な矛盾(犠牲なしに安全は保てない)を覆い隠し、その代償をシステムの外にあるはずの非人間的存在(要石たる、猫の姿をした神獣)に転嫁するという、倫理的責任の外部化として厳しく問われる点である。国家や行政が担うべき責務が、個人の複雑な動機(愛と責任)と非人間的存在の犠牲の上に成立するという構造は、新自由主義的な自己責任論の極致であり、集合的な無責任がもたらす「倫理的重圧」の現れである。古来より地震鎮護の象徴であった「要石」という歴史的な権威を持つモチーフを、個人の傲慢なロマンスと犠牲の物語に接続するこの手つきは、集合的無責任と個人の肥大した自我によるねじれを感動的に隠蔽しようとする、物語的欺瞞の極致に他ならない。
しかし、物語のクライマックスで、鈴芽が過去の自分自身を救済し、常世で失われた人々の声を聴く行為は、強制された犠牲を超えた、デリダのエクリチュールとしての自律的な証言者への変貌を意味する。
2.2. 閉じ師の役割の社会学的意味と見えないインフラの維持
閉じ師の役割は、単なるファンタジーの役職ではなく、現代社会における見えないインフラの維持者という社会学的視点から分析される。災害を集合的無意識の産物として捉えるならば、閉じ師は、見えない感情的・歴史的なインフラの修復者であり、社会の集合的な精神衛生を担う存在である。
これは、ニクラス・ルーマンのシステム理論におけるシステムと環境との境界維持という視点に接続し、鈴芽の行為を見えない社会システムに対する倫理的奉仕として位置づけ直す。また、ダイジンやサダイジンといった要石の役割を担う存在が、その役割を放棄したことの倫理的意味は、現代社会が直面する、見えない責任の放棄という倫理的課題の象徴であると解釈できる7。
2.3. 証言の倫理的必要性:エクリチュールと感情のインフラ
忘却という無意識のシステムに抗うためには、フランスの哲学者ジャック・デリダが論じるエクリチュール(Écriture)の倫理的な必要性が生じる。すなわち、書く行為、または記録や記憶を倫理的に確立する証言が必要となる。鈴芽の旅と、彼女が体験した感情の記録は、社会の集合的記憶を維持し、次なる災害への倫理的準備を促すための最も強固な論理的基盤となる8。
一方で、鈴芽が旅の途中で出会う人々との交流、特に環(叔母)の存在は、個人の責任という重圧を支える感情のインフラとして機能する。環が鈴芽に対して抱く複雑な感情(愛と嫉妬、そして責任)の描写は、歴史的喪失を経験した世代間で引き継がれる倫理的負荷の葛藤として解剖される。モーリス・アルブヴァックスの集合的記憶は、単に故人との関係性だけでなく、旅という移動する社会的な枠組みの中で再構築されていくのである9。
3. 再生と新しい倫理:喪失を内包する「行ってきます」の誓い
本章では、鈴芽の清算の試みが、いかに災害と共存する未来に対する新しい倫理的規範を提示し、連載全体の論理的な結論を導出するかを論じる。
3.1. エコ・フィクションの倫理的役割と喪失の内面化
鈴芽の扉を閉めるという個人の倫理的行為による清算の試みは、新しい社会、すなわち災害と共存する未来に対する再生の倫理的規範を提示する。この作品は、地震や気候危機といった見えない災厄に対し、フィクションがいかに個人の行動を促す倫理的な駆動原理を提供できるかという、エコ・フィクションの倫理的役割を果たしている。
巨大な災害という喪失を、単なる不幸として忘却するのではなく、集合的な責任として個人が内面化し、行動の駆動原理として昇華させる倫理こそが、本作が提示する新しい倫理的規範である。これは、ダークツーリズムの精神、すなわち、悲劇の場所を忌避するのではなく、記憶の継承地としてコミュニティに取り込む具体的で持続可能な社会実装の可能性を示唆している。
3.2. ゼロベースからの自己の再定義と清算の倫理の完遂
『すずめの戸締まり』の鈴芽は、災害の記憶という集合的な歴史を清算し、ゼロベースで自己を再定義することの倫理的必要性を、自身の行動を通して証明した。この清算の倫理の完遂によって、彼女は、歴史の呪縛からの解放を果たし、再生の倫理を確立する。
新海が『君の名は。』で描いた「非合理な再接続」や、『天気の子』で描いた「合理的犠牲」の倫理的限界を超えて、歴史の清算という重い責務を個が引き受けた瞬間として位置づけられる。しかし、この解決は、個人の愛と自己犠牲が、公的な無策を感情的なカタルシスによって覆い隠し、非人間的な存在(要石)への犠牲転嫁をもって再び日常を再構築するという、既存システムへの加担という倫理的な両義性を内包する。この構造こそが、新海作品が意図せず、集合的な無責任の構造を肯定し、再生産する危険性を孕んでいる。
鈴芽が幼い自分自身に語りかける「行ってきます」の言葉は、この不安定なシステムの永続的な維持を、個人が引き受けた、悲劇的なほどの倫理的誓約として読まれなければならない。この言葉は、喪失を内包しながらも、それでも未来へ進むという、連載全体を貫く【歴史の清算と「喪失からの再生」の倫理学】の、最も根源的で強い決意の表明である。
3.3. 次回への論理的接続:清算後の隠蔽という新たな倫理的挑戦
この清算と再生のプロセスをもって、全5回にわたる本連載は完結する。鈴芽の旅は、見えない災厄を可視化し、集合的な喪失を清算した。しかし、その論理の帰結として、次の事実が露わになる。この清算が完了した後、社会に残されたものが、その清算の努力を効率という大義名分の下に隠蔽しようとする新しいシステムの倫理的危険性であることを。
次回から始まる新たな連載では、この清算によって顕在化したシステムの欺瞞に焦点を当てる。合理性の名の下に排除されるノイズ、そしてシステムが意図的に構築する隠蔽構造に対し、いかにして個人の非合理的な熱狂が真実を暴き出すのか。その闘争の系譜を追うことになるだろう。
結論
『すずめの戸締まり』は、災害を、社会の忘却という集合的無意識のシステムが生み出す運命的な呪縛として捉え直した。鈴芽の旅は、その呪縛からの個人の倫理的な解放と、未来への贖罪の倫理の確立を試みる証言のプロセスであった。彼女が、自らの体験を通し、次世代(幼い自分)に託した「行ってきます」の言葉は、喪失からの再生を志向する生存者の、最も根源的で強い決意の表明である。
本連載【歴史の清算と「喪失からの再生」の倫理学】を通じて、本論考は80年代の終末論から現代の災害論に至るまで、個人がいかにしてシステムの呪縛と対峙し、喪失を乗り越えてきたかを追跡してきた。『すずめの戸締まり』が示した個人の責任による歴史の清算は、一つの到達点であると同時に、新たな出発点でもある。なぜなら、清算された歴史の先には、常に新たなシステムによる真実の隠蔽が待ち受けているからだ。次なる論考では、その隠された真実を暴く、破壊的な天使たちの物語へと足を踏み入れる。
- 先行記事「『君の名は。』:記憶の断裂と「非合理な再接続」」、「『天気の子』:共同体の生存が要求する「合理的犠牲」の倫理的臨界」参照。↩
- 本稿は、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追う連続批評企画【歴史の清算と「喪失からの再生」の倫理学】の最終回である。過去の論考は以下の通りに展開された。1. 80s『復活の日』: ウイルスと「歴史の強制リセット」。2. 90s『Love Letter』:喪失の倫理学と「倫理的生存者」の責務。3. 00s『男たちの大和/YAMATO』:運命の破綻と「現代の棄民」の倫理。4. 10s『夜は短し歩けよ乙女』:遊びの熱狂と「戦略的逃避の倫理」。そして本稿5. 20s『すずめの戸締まり』は、集合的喪失の清算と個人の贖罪を主題とする。↩
- 前回記事「『夜は短し歩けよ乙女』:遊びの熱狂と「戦略的逃避の倫理」」では、日常というシステムに回収される個人の営みがいかに倫理的な自由を奪う「表層の呪縛」であるかを論じた。本稿は、その日常の呪縛の奥にある、集合的な歴史の喪失という「深層の呪縛」の清算を扱う。↩
- ウェザーニュースの「減災調査2021」やNHK放送文化研究所の調査など、震災から10年を迎えた時点での世論調査では、「震災の記憶の風化を感じる」と回答した国民が8割以上に上っている。これは、個人の体験記憶が鮮明であることと、集合的な記憶の風化という社会的な課題意識が並存していることを示唆する。↩
- ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』参照。過去の亡霊が現在に回帰し、倫理的な応答を迫る構造分析。↩
- 正常性バイアス(Normalcy Bias)が、生存戦略として機能する一方で、システミック・リスクを増大させるという危機管理論のパラドックスを参照。↩
- ニクラス・ルーマンの社会システム理論における、複雑性の縮減とシステムの維持機能に関する議論を参照。↩
- ジャック・デリダのエクリチュール(書かれたもの)論:「忘却」という集合的なシステムに抗うための、「書く」行為すなわち「証言」の倫理的な必要性。↩
- モーリス・アルブヴァックス『集合的記憶』参照。記憶が個人の脳内だけでなく、記憶の社会的枠組み(Les cadres sociaux de la mémoire)の中で保持されるという理論。↩

