時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『ソードアート・オンライン』:致死的な合理性と「命の資源化」

システムと規範の構造アニメSFとポストヒューマン2010年代ノベル

もし、命がたった一つのゲームルールに支配され、非効率な優しさや無駄な連帯が即座に「死」というペナルティで罰せられるとしたら? 『ソードアート・オンライン』のアインクラッド編は、VRファンタジーではない。それは、現代社会のあらゆる場所で進行する「冷たい合理性」が、人間の感情的なコストをいかに徹底的に管理し、排除し尽くすかという、戦慄すべき構造分析である。この構造を突き詰めれば、鑑賞者の「努力が報われない」という感覚は、システムがその情熱を「資源」として回収しているからだ、という冷徹な結論に至る。本稿が追及するのは、SAOが提示する「致死的な効率性」のシステムが、いかに私たちの主体性を機能的倫理へと変質させるかという批評性だ。そして、私たちはこの物語を通して、アルゴリズム管理が支配する現実世界で、システムへの抵抗と非効率な連帯の再構築の可能性を、論理的な厳密性と知的な緊張感をもって考察する。この批評は、ゲームの向こう側にある、私たちが生きる世界を支配する透明なルールを浮き彫りにするだろう。

【仮想の深淵と、演算される魂の残滓】
作品データ
タイトル:ソードアート・オンライン
公開:2012年7月7日(放送開始)
原作:川原礫(ライトノベル『ソードアート・オンライン』)
監督:伊藤智彦
主要スタッフ:足立慎吾(キャラクターデザイン)、梶浦由記(音楽)
制作:A-1 Pictures

序論:致死的な合理性の契約が始まる

『ソードアート・オンライン』(SAO)は、川原礫がインターネット上で連載を始めたウェブ小説を原型とし、2009年に電撃文庫から刊行されたライトノベルシリーズであり、その後、マンガ、2012年のTVアニメ化、そしてゲームを含む巨大なメディアミックス作品へと展開した。この作品が迎えた熱狂的な受容と爆発的なブームは、単なる仮想現実(VR)の目新しさや「俺TUEEE」1を求めた快感だけでは説明できない。

本作の舞台は西暦2022年、VRMMORPG「ソードアート・オンライン」の始動により、約1万人のユーザーがフルダイブする。しかし、ゲームマスター茅場晶彦によって「自発的ログアウトの不可能化」というシステム的拘束が発動し、プレイヤーたちは「ゲーム内での死は現実の死」という致死的な契約の中に閉じ込められることとなった。

SAOがゼロ年代末からテン年代初頭2という時代に提示した批評性は、極めて鋭い。それは、私たち氷河期世代が社会に出る中で肌で感じてきた、「努力や熱量が、報われずにコストとして処理される」という冷徹な現実感覚と深く共鳴したからに他ならない。

私は、この物語を、現代社会のあらゆる局面を支配しつつある「冷たい合理性」のシステムが、私たち人間の非効率な連帯や情熱的負荷のコストを、いかに巧妙に利用し、管理し尽くすかという、戦慄すべき現代批評装置として捉える。

[前回の論考]では、身体的な熱量という非効率なコストこそが、真の連帯を生む可能性を論じた3。しかし、本稿が追及するのは、その情熱がシステムにとって「管理・回収すべき資源」となる「裏切り」の構造である。SAOの「フルダイブ」技術は、現実のノイズから解放された自由を約束するかに見える。しかし、「ログアウト不可」という「アインクラッドの契約」は、現実の倫理的コストを排除し、「投入コストの排除」という形で効率化を強いる。このとき、プレイヤーの主体性は、「死」という究極のペナルティによって、システムに直結させられた管理下の資源へと変貌するのである。

1. アインクラッドの設計思想:「冷たい合理性」と身体の計算可能性

1.1. ウェブ小説の背景と「自己責任論」の構造

SAOがウェブ小説としてスタートした時代は、インターネットの普及により、「個の能力」のみが無限に拡張する夢が語られる一方で、現実社会ではバブル崩壊後の就職氷河期が続き、努力が報われない構造的な不遇4が社会全体を覆っていた。

SAOのシステム(茅場晶彦)は、この時代の自己責任論を究極の形で体現する。アインクラッドという世界では、一切の社会的な背景や過去の経験はリセットされ、HPやスキルという純粋な能力値のみが真理となる。これは、現実の不確実な評価システムから逃れ、「努力すれば報われる」という透明なゲームの論理を求める、当時の時代精神を反映している。しかし、その論理の徹底は、失敗を「現実の死」という究極の自己責任に帰結させる、極めて冷酷な構造として提示される。

1.2. 現実の無効化と計算可能なバーチャル身体

SAOのシステムがまず行ったのは、世界から不確実性という倫理の余地を排除することである。アバターというバーチャル身体は、HP(ヒットポイント)やステータスといった計算可能な数値に還元される5。これは、人間存在の根幹にある非効率な要素、つまり「感情の揺らぎ」や「身体の予期せぬ限界」を、システムから切り離す作業だ。

HPという数値は、他者への倫理的責任、例えば「仲間を庇う自己犠牲」すらも、計算可能なリスク=コストとして管理できる対象に変えてしまう。この空間では、ボードリヤールのいうハイパーリアル6が唯一の現実となり、不確実性という名の「温情」は排除される。

1.3. 「致死的な効率性」がもたらす遊びの終焉

「ゲーム内での死=現実の死」というルール、すなわち「致死的な効率性」はSAOの核心である。これは、私たちから「遊び」の領域を完全に消し去る7。非効率な試行錯誤、無駄な行動、倫理的な躊躇といった人間的な行動は、即座に「死」という究極のコストによって罰され、排除される。

システム(茅場晶彦)は、この致死的なペナルティによって、全プレイヤーを「ゲームクリア」というただ一つの合理的目標へ向かって最適化される機能へと変質させる。ここで要求される完全な投入(フル・コミットメント)は、自由な決断ではなく、システムの効率性を最大化するためにのみ存在する飼育された主体性の逆説的な姿なのだ。

2. システムの浸食:熱狂の裏切りと倫理の解体

2.1. プレイヤーによる「冷たい合理性」の内面化

SAOの批評性が深いのは、その管理が外部からの一方的な強制に留まらない点である。多くのプレイヤーは、生存という極限状況において、システムの論理を積極的に受け入れ、自らの生存戦略として遂行し始める。非効率な協力よりも、最短ルートでのレベリングや、リソースを独占するためのPK(プレイヤー・キル)行為といった、「冷たい合理性」を内面化した行動を選択する。

これは、就職氷河期を経験した世代が、社会というシステムの中で、能力主義や成果主義といった論理を内面化せざるを得なかった状況と酷似している。プレイヤーは「生きる」という大義名分の下、システムの効率性を高めるための自発的な歯車となっていく。

2.2. 非効率な連帯の崩壊と倫理的コストの数値化

システムの論理は、非効率な連帯を徹底的に許容しない。「月夜の黒猫団」の壊滅的な結末は、この論理を象徴する。実力差を無視した非効率な連帯8は、システムの論理から見ればバグであり、即座に致命的な結果によって罰せられる。

HPという計算可能な数値に還元された世界では、レヴィナスが語る「他者の顔」9が呼び覚ますはずの無限の倫理的責任は、アバターというインターフェースと、「致死的な効率性」によって無効化される。連帯は、感情的な絆ではなく、「ギルド」という名の効率的な資源配分システムへと変貌していく。

2.3. 抵抗のジレンマ:キリト=アスナの「愛」が抱える矛盾

物語におけるキリトとアスナのパートナーシップは、システムへの抵抗、非効率な連帯の回復の試みとして描かれる。しかし、彼らの「愛」ですら、システムの効率性に最適化された最強プレイヤー同士の組合せとして成立している側面を持つ。彼らの行為は、システムの目標(クリア)から完全に逸脱するものではなく、むしろクリアに向けた最適な資源配分の一種と見なすことも可能である。

真の倫理的抵抗とは、システムの効率性から完全に逸脱し、非効率なコストを支払う行為であるはずだ。彼らの関係性が、システムの論理をどこまで超克できたのか。そのジレンマにこそ、SAOの深みがある。

3. 現実への接続:私たちが生きる世界を支配するSAOの影

なぜSAOは、発表当時から今に至るまで、世代を超えて熱狂的な支持を集め続けるのか。それは、SAOのシステムが、私たち現実の世界を貫くアルゴリズムによる業績評価・管理(Algorithmic Management, AM)の構造と、深く共鳴しているからに他ならない。

  • 個人の時間が「数値化」されるとき:AMは、ギグエコノミーやオフィスワークにおいて、タスクの割り当てやパフォーマンス評価をリアルタイムのデータで行う10。これは、SAOがプレイヤーにクリアという唯一の目的に対する完全な投入を強要し、それ以外の非効率な活動を排除する構図と、驚くほど同一である。個人の仕事における「頑張り」は、システムによって計算可能な投入コストとして扱われているのだ。
  • 「監視」がもたらす心理的疲弊:AMは、効率化を名目に労働者を絶えず監視し、その行動を細かく指示する。この「常に見られている」という圧力は、SAOプレイヤーが「死」の恐怖の下でシステムに隷属する精神状態と重なる。最新の研究では、このアルゴリズムによる継続的な監視が、ストレスやバーンアウトといった心理社会的リスク11を増大させていることが指摘されている。
  • 効率性 vs 公平性の残酷なトレードオフ:SAOのシステムが「最強のプレイヤー」を優先し、非効率な者を切り捨てる論理は、現実のAMが直面する倫理的な問題そのものである。アルゴリズムは、過去の成功パターンに基づく効率性を追求するあまり、公平性(倫理)というコストを積極的に切り捨てる。例えば、Amazonの採用AIが過去の男性優位のデータを学習し、「女性」という単語を含む履歴書を減点対象とした事例12は、システムが倫理を積極的に排除する「冷たい合理性」の非倫理性を明確に示している。

結論:ドグマとしてのシステムとの対峙

『ソードアート・オンライン』は、私たち自身が、すでに「ゲームの論理」と「冷たい合理性」によって支配されつつあることを告発する、強力な警鐘である。アインクラッドという究極の管理システム(=茅場晶彦のドグマ)は、非効率な倫理的コストを排除し、私たちの情熱的負荷を、システムの効率化のための燃料へと回収する。

この絶対的な合理性という名のドグマに対し、私たちはどのように抗うことができるのか。システムが提示する「真理」に対し、いかに個人が理性的な抵抗と実存的な責任を引き受け、自己の非合理な主体性を取り戻すのか。

この問いは、次回で扱う、ドグマが支配する閉じた世界で、知性の闘争を繰り広げる物語へと接続される。私たちは、その物語を通して、絶対的な合理性を打ち破るための、個人の倫理的な責任を深く考察する。

  1. 主人公が圧倒的な強さを持つことを指すネットスラング。SAOは初期の「ウェブ小説」ムーブメントが持つ、「個の能力による圧倒的な成功」の志向性を共有している。
  2. 2000年代末から2010年代初頭。SAOがネット発のライトノベルとして商業展開された時期。
  3. 前回の論考『リンダ リンダ リンダ』:奇跡の連帯と「情熱的負荷の代価」で定義された、目的合理的な観点からは無駄と見なされるが、共同体の倫理的規範を形成・維持するために必須となる、身体的・時間的な非効率的コストの投入。
  4. 1990年代半ばから2000年代初頭に社会人となった世代が経験した、非正規雇用の増加や正規雇用への機会損失といった、個人の努力では挽回が困難な雇用・経済構造の問題。これは「自己責任論」の温床となった。参照:日本の労働経済学における雇用構造分析
  5. 身体や能力を客観的な数値に還元し、定量的評価を可能にするシステムの志向性は、現代のフィットネスアプリやヘルスケアデバイスによる「自己のデータ化」の延長線上にある。参照:情報社会論・身体論
  6. ジャン・ボードリヤールが提唱した概念で、シミュレーション(模倣)が現実そのものを凌駕し、現実と模擬の区別がつかなくなった状態。SAOのデスゲームは、仮想現実を現実以上の「絶対的な現実」として強制的に機能させる。
  7. ゲームにおける「遊び」の定義の一つである、自己目的的な活動や無償の試行錯誤を、システムが「死」という外部からのペナルティにより強制的に排除する構造。フランスの社会学者ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』で提示した遊びの分類(アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクス)のうち、本論で言及する「非効率な試行錯誤」や「自由な熱量」の排除は、パイディア(Paidia:自由奔放で即興的な遊び)の要素をシステムが強制的に収束させることを意味する。
  8. ここでは、レベリングの効率や戦闘スキルといった数値化された能力の不均衡を指す。連帯の基盤が感情的な絆のみであり、システムの要求する合理的パフォーマンスを満たせない構造。
  9. エマニュエル・レヴィナスが提唱する、他者の存在が呼び起こす無限で非対称的な倫理的責任。SAOではアバターという均質なインターフェースがこの倫理的対面を無化する。
  10. アルゴリズム管理は、タスクの割り当て、シフトのスケジューリングなどをデータに基づき自動で行うことで、人間的裁量や非効率な時間(例:休憩、人間関係構築)を排除し、生産性を最大化する。参照:EU圏内の社会科学的論考および労働経済研究
  11. アルゴリズムによる継続的な監視と自動化された評価は、労働者に高いストレス、不安、燃え尽き症候群をもたらす深刻な心理社会的リスクを増大させることが最新の研究で強く警告されている。参照:労働衛生・社会心理学的研究
  12. Amazonの採用アルゴリズムが、過去のデータを学習した結果、女性を表す言葉を自動的に減点対象としてしまった事例。これは、アルゴリズムが「効率性」を追求するあまり、倫理的な「公平性」を犠牲にする構造的欠陥を示す。参照:情報倫理・アルゴリズム研究
タイトルとURLをコピーしました