誰が「悪人」なのかという問いは、殺人犯と愛を巡る逃避行の末に、観客へ向けられる最も鋭い倫理的刃物である。この物語の本質は、個人の情動の深淵にあるのではない。考察の焦点は、事件を取り巻く匿名的な「世間」という構造が、いかにして真実を隠蔽し、安易な「悪」の記号を製造することで、自らの「集団的無関心」という名の欺瞞から逃れたかという、構造的欺瞞の詳細な分析に置かれる。
序論:吉田修一・李相日タッグによる「共同体の規範」への問い
本論考は、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追う批評企画【システムの「隠蔽構造」と変容する真実:集団の欺瞞を暴く「個人の責務」の倫理学】の第4回にあたる。
[前回の論考]は、「理性による欺瞞の暴き」を主題とした1。本稿は、その理性の眼差しを、社会的な判断や正義からの逸脱、すなわち「極限状況における暴力と愛の倫理」へと移行させる論理的な転換点として、2010年に公開された李相日監督の映画『悪人』を分析する。
本作は、吉田修一の小説を原作とする作品群のうち、李相日が手がけた協働作の第一作にあたる。李と吉田は、一貫して「人間は共同体の規範にどう抗うか」という主題に挑み続けている。彼らのタッグが提示する視座は、常に「集団の規範と個人の情動の相克」、すなわち本連載が問う「システムの隠蔽構造」を批評的な視座から究明する2。
『悪人』の舞台は、地方の漁村や山間部だけでなく、馬込光代(深津絵里)の住む国道沿いの殺伐とした郊外都市にも及び、日本全国に共通する、経済成長の恩恵から取り残された時代の空気を描いている。不安定な労働環境とコミュニティの希薄化が常態化し、コミュニティの紐帯が崩壊した「システムの機能不全」が可視化された空間として提示される。この地域が抱える構造的な閉塞感――希望のなさ、人間関係の希薄化、そして何よりも「誰も私を見ていない」という孤独――こそが、本連載が問う「集団の欺瞞構造」の原点である。
清水祐一(妻夫木聡)が体現するのは、「システムの非当事者性」である。彼は、地方の閉塞的な環境で日々の労働に従事する者の姿であり、システムを担う側ではなく、その辺縁で生活を送る「透明な存在」として描かれる。彼の犯した殺人は、その人間性から必然的に導かれたものではなく、むしろ「誰にも関心を持たれない」という極限の孤独と、被害者からの侮辱、そしてその状況から脱出するための「承認欲求の逸脱」が交差した結果である。従来の言説は、本作を愛と孤独の物語として情緒的に評価してきたが、本批評の視座は、その愛と孤独を駆動させた「集団の無関心という名の悪の構造」にある。この無関心こそ、ハンナ・アーレントが指摘した「悪の陳腐さ」の一形態である3。
1. 欺瞞のシステム:傍観者という集合知の構造
作品内で支配的な集団的な欺瞞構造がどう機能し、主人公やキーパーソンが、その集団の欺瞞にどう対抗し、「変容する真実」をどう確立しようとするかを分析する。この欺瞞構造は、具体的な権力ではなく、匿名的な集合知である「世間」によって形成される。
1.1. 悪人像の製造とスペクタクルの消費
本作における「欺瞞のシステム」は、具体的で物理的な権力ではなく、「世間」という匿名的な集合知である。「世間」は、祐一が殺人犯として特定されるやいなや、彼を「悪人」として断罪し、その過程で、彼が置かれていた構造的な孤独や、被害者・石橋佳乃(満島ひかり)が抱えていた人間関係の歪みといった、事件の「真実の背景」を徹底的に隠蔽する。映画内におけるテレビ報道の言説は、個人の機微や動機を切り捨て、彼らを「悪」という記号に還元することで、物語を単純化し、集団の視聴覚的な満足を高める。このプロセスは、ギー・ドゥボールが分析した「スペクタクルの社会」論と接続する4。祐一は、システムが生み出した構造的欠陥の被害者であったにもかかわらず、システムの機能を保つための「スケープゴート」として消費された。
1.2. 液状化する社会と共同体規範の溶解
祐一と光代が地方の閉塞的な労働環境やコミュニティの希薄化という「システムの辺縁」で出会い、逃避行を通じて見せる「非属の連帯」は、現代社会における「公共空間の溶解」を物語る。地方コミュニティの監視機能(公的空間)の崩壊が事件の背景にある。ジグムント・バウマンが論じた「液状化する社会(リキッド・モダニティ)」においては、コミュニティや規範が固定されず、すべてが不安定で流動的である5。この流動性こそが、祐一のような「非当事者」をシステムの辺縁に追いやる構造である。彼らの愛は、資本主義が作り出した「共同体不在」の空間における、最後の倫理的避難所であった。
1.3. マスメディアと地方の口伝による集団的欺瞞
この構造は、2010年当時のテレビ報道による断罪の構造と、地方社会における口伝(口コミ)による排他的な世間の圧力として成立する。劇中における報道の無責任な断罪は、集団が真実の複雑さを無視し、感情的な「集団的熱狂」によって対象を断罪することで、自らの責任を回避する欺瞞を示す。特に地方では、濃密な人間関係の中での噂や断罪こそが、個人の背景を無視し、祐一を「悪」の記号として固定化する主要因となった。これは、傍観者の集合知が、真実の探求を放棄し、集団的な安心感を優先する「情報の集団的欺瞞」に他ならない。
2. 個人の責務と逸脱:極限状況における愛の倫理
システムや集団の欺瞞に対峙する個人を動かす「倫理的な駆動原理」を特定し、それが「個人の責務」として機能しているのか、あるいは「倫理的な逸脱」として作用しているのかを批評的に検証する。
2.1. 家族の機能不全と構造的アノミー
祐一が地方で送る、家族からの期待と、彼に与えられた不安定な社会的地位(現実)のギャップは、まさに構造的なアノミーの帰結である。2010年前後の有効求人倍率の低迷と不安定な労働環境は、彼がシステムに組み込まれ得なかった「非当事者」であることを客観的に裏付ける6。
さらに、祐一は幼少期に母親に放置された後、祖母に育てられたヤングケアラーであり、祖母がマルチ詐欺被害に遭うなどの金銭的な脆弱性を持つ中で、彼は家族の機能不全のしわ寄せを一手に引き受けていた。彼の殺人行為は、社会的な成功という規範(目的)と、彼に与えられた不安定な立場(手段)の乖離が極限に達した結果、「馬鹿にされ、悔しく、腹が立った」という、個人が持つべき最小限の尊厳を侮辱されたことに端を発する「承認欲求の逸脱」であり、単なる個人の悪意として片付けることはできない。
2.2. 他者への無限の責任と実存の回復
彼らが愛を交わし、ついに逮捕される直前の描写は、彼らが一時的に「悪人」というレッテルから解放され、一人の人間として「実存」を回復した瞬間を示す。祐一と光代、この二人の「システムの非当事者」が、社会的な正当性を完全に逸脱した逃避行の中で見出す愛は、彼らにとって「生きる理由」、すなわち「倫理的な駆動原理」となる。彼らが求めるのは、社会からの「赦し」や「正義」ではなく、エマニュエル・レヴィナスが説く「他者」との間に成立する、社会規範を凌駕した「無限の責任」である7。特に、祐一が光代を絞め殺そうとした行為が警察の突入によって中断された直前、光代による無条件の受容は、彼の奥底にあった「侮辱された尊厳」を回復させた、決定的な倫理的契機であった。
2.3. 傍観者への責任の分配の倫理
集団的な無関心という欺瞞に対する、個人による究極の「倫理的対抗」として、彼らの愛は機能する。この観点から、祐一の犯した罪の「責任」は、彼を孤独に追い込んだ「無関心な集団」にも分配されるべきではないかという問いが成立する。現代倫理学の責任分配論は、集団の無関心という「構造的な不作為」に対する倫理的な責任を問う視点を提供する8。祐一の殺人は、「傍観者」の不作為が誘発した帰結である。集団が自らの倫理的責任を否認し、安易な「悪人」のレッテルで済ませる欺瞞を、本論考は厳しく批判する。
3. 倫理的転換点:構造的アノミーの反復と記憶の倫理
作品の結論が、「欺瞞に満ちた社会」に対し、どのような「新しい集団の倫理的規範」あるいは「個人の倫理的対抗軸」を提示しているかを論じる。
3.1. 房枝の存在と集団的熱狂からの離脱
『悪人』の結論は、祐一が社会的な断罪を受け入れるという、形式的な「正義の回復」に終わる。しかし、より重要なのは、主人公の祖母である清水房枝(樹木希林)の存在である。房枝の行動は、単なる「善意」ではない。彼女は、孫を愛する一方で、ヤングケアラーとして献身を強い、マルチ詐欺被害に遭うなど自身が極めて脆弱である。この脆弱性は、祐一に過度な負担を強いる家族機能の不全という形で現れ、集団の欺瞞に先立つ「個人の機能不全」を象徴している。彼女の愛着(祐一からのスカーフに見られる)は、時に孫をヘルパー代わりに利用し、具体的な搾取の側面も持つという両義性を抱える。彼女は、苦情を言いに来た娘(祐一の母)に対し「私が育てた」と訴えるように、集団的な規範から逸脱した孫への責任を負う唯一の「当事者」として、愛着と体面の板挟みになりながら孫の状況に直面する。被害現場のガードレールに残されたスカーフは、房枝の愛着の象徴であると同時に、愛と責任の重さに耐えかねた「絶望的な放棄」の含みをも持つ。房枝が体現するのは、「集団的な熱狂」からの離脱と、その裏に潜む「愛と罪」の葛藤と、自己防衛的な断罪という、本連載の最も重要な倫理的要請である。このスカーフが、光代と被害者の父の遭遇というドラマチックなシーンの背景に、控えめに、ほとんど見逃されるように配置されていることは、房枝の愛と責任を放棄した「傍観者」の倫理的帰結を象徴している。
3.2. 傍観者の集合知の反復と記憶の欺瞞
祐一の「傍観された孤独」を、現代の「SNS炎上」や「匿名的な断罪」の構造と接続することは、集団的欺瞞が「構造的アノミーの反復」を生む論理的な根拠となる。安易な「悪人」認定は、この構造的な原因を見過ごし、次の「アノミー」の発生を許容する「傍観者の集合知の反復」に他ならない。この集合知の反復は、真実の背景を忘れ去る「記憶の欺瞞」であり、集団は過去の過ちから学ぼうとしない。この構造的無関心に対し、被害者の父である石橋佳男(柄本明)が発した「今の世の中、大切な人がおらん人間が多すぎる」という言葉は、本連載が批判する「集団の欺瞞」の核心を衝く、痛烈な証言である。この批判的視座は、連載全体の論旨を強化する。
結論
『悪人』は、システムの「構造的な閉塞感」が、いかにして「悪」という陳腐な記号を生み出し、真実を隠蔽する「集団の欺瞞」へと変容するかを克明に描いた。不安定な労働環境と家族の機能不全を背景に持つ「非当事者」の祐一の姿は、承認されない孤独と、その状況からの脱出を求めたが故の「倫理的逸脱」を読み取る。祐一と光代の極限の愛は、社会的な規範を逸脱したものではあったが、それは「傍観者」という欺瞞的な集団構造に対する、「個人の実存」を賭けた最も純粋な倫理的対抗であった。特に光代による無条件の受容は、祐一の奥底にあった「侮辱された尊厳」を回復させる、決定的な倫理的契機となった。
この対抗行為は、観客に対し、安易な「悪人」というレッテル貼りを拒否し、常に「真実の背景」を問う「個人の倫理的責務」を呼び覚ます。しかし、この個人の責務のみでは、「集団の無関心」という構造的欺瞞を根本的に解体することはできない。なぜなら、無関心は常に反復し、新たな「非当事者」を悪へと追い込み続けるからだ。したがって、我々が真に乗り越えるべきは、傍観者という集合知が繰り返す「記憶の欺瞞」であり、そのためには、事件を忘却せず、その構造的背景を集合知として定着させる「集団の倫理」の構築が不可欠となる。
この論考は、次回、いかにして社会は過去の過ちを「集合的な倫理」として記憶し、その反復を断ち切れるのかを主題とする批評へと引き継ぐ。
- 前回記事「『トリック』:欺瞞の時代と「懐疑」のサバイバル倫理」は、科学と非科学の正当性の主張が集団的熱狂を生み出す欺瞞構造を分析し、理性的懐疑精神の倫理的責務を問い、本稿の「社会的な判断からの逸脱」というテーマへの接続を確立した。↩
- 李相日と吉田修一は、その後も『怒り』(2016年、主題:信頼の境界)や『国宝』(2025年、主題:芸の共同体規範対情動の相克)などで協働しており、一連の作品群を通じてこの主題を深掘りしている。↩
- ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』における「悪の陳腐さ」論。思考の停止と傍観者意識が、自らの行為の倫理的帰結から目を背けさせ、結果としてシステムに奉仕する「悪」を量産する。本作の「世間」の反応は、この「陳腐な悪」の集団的発露である。↩
- ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』論。「スペクタクル」とは、集団的な欺瞞が、イメージと情報を通じて現実を覆い隠す社会的な関係性を指す。祐一の「悪人像」はその典型であり、真実が商品化される構造の可視化。↩
- ジグムント・バウマンの『液状化する社会』論。コミュニティや規範が固定されず、すべてが不安定で流動的である現代社会。この「リキッドな状況」において、個人の連帯(祐一と光代の愛)は極めて脆く、排他的なものとなる。↩
- ロバート・マートンによる『アノミー』論。システムが目指す目的(例えば経済的成功、社会的承認)と、それを達成するための手段(安定した雇用、社会的連帯)が乖離し、逸脱行為(祐一の殺人)を誘発する社会構造。「アノミー」とは、社会の規範や価値観が弛緩・崩壊し、個人が目標達成の手段を見失い、無規範状態に陥ることを指す。↩
- エマニュエル・レヴィナスの『他者』論。他者の「顔」に向き合い、その存在に対して無限の責任を負うという倫理的要請は、集団的な「総体性」や「社会的な正義」を打ち破る。祐一と光代の愛は、この「総体性からの逸脱」である。↩
- 複雑な社会システムにおける不正や悪の責任は、単一の行為者に帰属せず、「構造的な不作為」を犯した集団にも分配されるべきという現代倫理学の視点。↩

