時代の構造を読む評論ブログ|文化的記憶を通して時を解く

『君の名は。』:記憶の断裂と「非合理な再接続」

映画アニメ精神と内面の構造2010年代
【彗星の光と、身体の約束】
作品データ
タイトル:君の名は。
公開:2016年8月26日
原作・監督・脚本:新海誠
主要スタッフ:安藤雅司(作画監督)、田中将賀(キャラデザイン)、RADWIMPS(音楽)
制作:コミックス・ウェーブ・フィルム

序論:渇望された「記憶の再接続」と構造的問い

2000年代初頭、社会に絶望した個人は、インターネットというドライな技術の中に代償的な居場所を見出した([前回の分析]を参照)。それは、感情を排し、実利的なツールで孤独に対処する、ある種の諦念に満ちたリアリズムである。しかし、この冷めた解決は、2010年代に発生した大規模で理不尽な喪失という根源的な問いの前で限界を露呈した。技術は、失われた命やコミュニティを救うことができなかった。

技術が記憶の断裂を救えないとき、時代が渇望したのは、非合理的な力による「記憶の再接続」である。新海誠による2016年公開の映画『君の名は。』は、この時代の渇望に応えた物語である。

しかし、この作品の成功は、批評家コミュニティで激しい議論を巻き起こした。当時のセカイ系擁護論から一転し、批評家・東浩紀は「いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だ」とまで発言し、その構造的な危うさを指摘した1。私たちは、この強い違和感の正体を探る必要がある。本稿は、地名の喪失と身体の媒介という二つの軸から、この物語の構造的メカニズムと、そこに含まれる倫理的な問いを分析する。

1. 記憶の断裂とウェットな「ムスビ」の復元

『君の名は。』は、まず「記憶の断裂」という客観的な事実から始まる。作中で糸守町を襲ったのは、技術的な回避が不可能な災害である。その結果、コミュニティと「地名」が喪失した。地名は単なる記号ではない。それはその土地に住まう人々の集合的な記憶を保持する枠組みである。この地名が災害によって失われたとき、社会は悲劇そのものを語り継ぐための共通の記憶の器をも失ったと言える。

この、ドライな記録や行政の力では回復不可能な断裂に対し、物語は徹底してウェットな媒介へと回帰する。それが、身体の入れ替わりという仕掛けである。

社会学者モーリス・アルブヴァクスは、記憶は個人の脳内だけでなく、共同体の空間的・社会的枠組みによって保持されると論じた2。瀧と三葉の入れ替わりは、この「記憶の枠組み」が機能不全に陥った社会において、身体そのものを記憶の器として機能させる試みである。

身体が入れ替わることで、彼らは「記録」ではなく「体験」を通じて、互いの日常、文化、そして迫りくる運命を共有する。この体験の共有こそが、地名の喪失という客観的な断裂を、ウェットなレベルで接続し直す唯一の手段として機能する。

ここで中心となるのが、「ムスビ」という伝統的な概念、そして口噛み酒と組紐という儀式的なアイテムである。特に口噛み酒は、三葉の唾液が混ざった「ウェットで非衛生的」な、しかし最も個人的で生命に直結した情報(DNA)を媒介とする儀式である。祖母の一葉が「それはあんたらの半分やからな」と語るように3、物語は現代科学が失敗した記憶の継承を、身体と伝統という最も非合理的な力に託した。

瀧が口噛み酒を飲む行為は、個人の境界(身体)を溶解させ、消滅したはずの共同体(糸守町)の記憶を、儀式(ムスビ)を通じて自分の内側(体内)に再構築するという、極めてウェットで徹底した集合的記憶の復元作業にほかならない。この再接続の成功は、感動的な「個人の物語」を達成させた。しかし、同時に、「社会」の機能不全の上で成り立つという構造的問いを残した。私たちは、この成功を手放しで祝福してよかったのだろうか。

2. 社会の沈黙とセカイ系の倫理的限界

感動的な成功を収めたこの物語の構造こそが、セカイ系の持つ限界を露呈させる。

批評理論によれば、セカイ系とは「ぼくときみ」という個人の関係が、中間項である「社会」を飛び越えて「世界」の運命に直結する物語構造である4。それは、いわば「僕と君」の関係が、社会を無視して世界の運命を決めてしまう物語のパターンである。

『君の名は。』では、この中間項の欠落が極めて露骨に描かれる。災害という構造的な危機に対し、行政機能や「大人たち」は無力化されるか、敵対的なものとして描かれる。瀧は町長である三葉の父に避難を訴えるが、「お前は誰だ」と一蹴される5。大人の会議は問題を解決できず、結局コミュニティを救ったのは、高校生二人の非合理的な情熱と決断であった。

考えてみれば、この構造的欠陥こそが、本作への批判を生む核である。この物語は、理不尽な喪失という現実の課題に対し、個人の情熱と運命論的な力に全てを依存する解決策を提示した。この解決は、「復興の責任」「行政の無力さ」といった現実的な構造課題と向き合うことからロマンティックに逃避したものではないか。

当時の批評界で論争となったのは、この物語が、現実の悲劇をファンタジーの力で「回避」し、「なかったこと」にしてしまうという倫理的な危うさを持っていた点である。このウェットなロマンティシズムは、構造的課題を放置したまま、感情に蓋をしたに過ぎないという、厳しい批判を受けざるを得ない。

結論:ロマンティシズムの限界と機能への転換

『君の名は。』は、個人的な救済としては成功し、多くの人々に希望という精神的効用を与えた。しかし、私たちの世代がこの物語に抱く拭い難い懐疑は、その成功が「構造的逃避」の上に成り立っているという一点に尽きる。

私たちは、「努力や情熱が報われず、社会構造が個人を罰する」というドライなリアリズムを骨身に沁みて知っている。このため、大人や社会の機能が停止したとき、「運命」や「超越的なムスビ」という非合理な力に全てを委ねる物語を、純粋な希望として受け止めることはできない。この構造的逃避は、戦後日本文学が抱える「政治と文学の分離」という、より根深い構造的課題と同根であると論じられている6

この作品は、「失われた絆は、個人的な情熱によって取り戻せる」と語りかけた。しかし、この「ウェットな回復」の非現実性こそが、次世代のリアリズムを決定づける。

愛や情熱が構造的な冷たさを解決できなかった結果、次の時代は、親密な繋がりすらも信用できなくなる 7。その答えは、感情的な繋がりを信じる代わりに、家族という最も親密な繋がりまでもが、「機能」と「役割」、そして「契約」という極めてドライな合意の上で再定義されるという道であった。

『君の名は。』は、ドライな時代と機能の時代の間にある、ウェットで非合理的な過渡期の頂点として位置づけられる。ロマンティシズムが限界を迎えたとき、私たちの孤独の課題は、「愛」から「機能の遂行」へと、その解決策を移行せざるを得なかった。

次回は、この「機能的リアリズム」の誕生とその限界について、構造的に分析を深めていく。

  1. 東浩紀による2016年10月6日のX(旧Twitter)投稿より。「君の名は。」を見て、「いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だという結論に達した。」
  2. 社会学者モーリス・アルブヴァクスは、記憶は個人の脳内だけでなく、共同体の空間的・社会的枠組みによって保持されると論じた(M. Halbwachs, La mémoire collective)。糸守町の地名喪失は、この記憶の枠組みの崩壊を意味する。
  3. 三葉の祖母・一葉による台詞。「それはあんたらの半分やからな」。口噛み酒が単なる飲食物ではなく、宮水家の血筋とムスビという、継承される生命の情報と儀式であることを示唆する。
  4. 前島賢は、セカイ系を、主人公「ぼく」とヒロイン「きみ」の個人的な関係が、中間項である「社会」を飛び越えて「世界の危機」に直結する物語構造であると定義している(前島賢『セカイ系とは何か』参照)。
  5. 瀧が避難を訴える三葉の父(町長)に対して向けられる台詞。「お前は誰だ」など、行政・社会の閉鎖性、無力さを示す具体的な描写。
  6. 2016年当時の批評論争では、この構造的逃避が、戦後日本文学が抱える「政治と文学の分離」という根深い構造的課題と同根であるという指摘がなされた。
  7. 東浩紀が論じた「動物化」の概念(大きな物語を信じず自己完結的な欲求に閉じこもる)は、ロマンティシズムの限界を経て、次世代の「機能と役割」に基づいた人間関係(機能的リアリズム)の台頭へと繋がる背景を構成する(東浩紀『動物化するポストモダン』参照)。
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